MARYSOL のキューバ映画修行 -2ページ目

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

サラ・ゴメス(1943年11月8日~1974年6月2日)監督・脚本家

  

ハバナの黒人中流階級の、知的で文化的な家庭の出身で、父は医者だった。

ハバナ音楽院で6年間学んだ後、学生新聞“Mella“や“Hoy domingo”で活動。

社会主義青年団に属していたが、頑迷なタイプではなく、むしろ物議をかもす方だった。

また、熱烈な革命家でもあった。

1961年にICAIC(国立映画産業庁)に入る。

1962年から63年にかけて教育系映画に関わるほか、アグネス・ヴァルダ監督の『キューバの皆さん、こんにちは』(1963年公開)にアシスタントとして参加。

   

  ※本編にも登場し〈チャ・チャ・チャ〉を踊っている。

 

1964年、T.G.アレア監督の『クンビーテ』、翌年にはホルヘ・フラガ監督の『El robo』で助監督を務める。

その一方で、’64年にドキュメンタリー映画 『サンティアゴに行こう』 で本格的に監督デビュー。

その後もドキュメンタリー作品を撮り続けるが、1974年、長編フィクション映画『ある方法で』を監督するも、持病の喘息により編集段階で他界(享年31歳)。遺作はトマス・グティエレス・アレア、フリオ・ガルシア・エスピノサ、リゴベルト・ロペスらが完成させ、1977年に公開された。

 

特長:

キューバ映画初の黒人女性監督として、アフロ・キューバのコミュニティや、女性、マージナルな存在の人々を描いたほか、人種・ジェンダー・階級間の不平等に焦点を当てた。

         

フィルモグラフィ ENDACより

1962: Plaza vieja/ Enciclopedia Popular No. 28 (Nota didáctica)

1962: Solar habanero/ Enciclopedia Popular No. 31 (Nota didáctica)

1963: Historia de la piratería/ Enciclopedia Popular No. 35- Número especial (Nota didáctica)

1964: Iré a Santiago (Documental, Dirección)

1965: Excursión a Vuelta Abajo (Documental, Dirección)

1966: Guanabacoa: crónica de mi familia (Documental, Dirección)

1967: … Y tenemos sabor (Documental, Dirección)

1968: En la otra isla (Documental, Dirección)

1968: Una isla para Miguel (Documental, Dirección)

1969: Isla del Tesoro (Documental, Dirección)

1970: Poder local, poder popular (Documental, Dirección)

1971: Un documental a propósito del tránsito (Documental, Dirección)

1972: Año uno (Documental, Dirección)

1972: Atención prenatal (Documental, Dirección)

1972: Mi aporte (Documental, Dirección)

1973: Sobre horas extras y trabajo voluntario (Documental, Dirección)

1974: De cierta manera (Ficción, Dirección)

 

参考作品:『サラ・ゴメスはどこ?』2005年/スイス/80分/ドキュメンタリー

   監督:アレサンドラ・ムラー

 

キューバ映画界における初の黒人女性監督としての側面のほか、妻、母親としての面にも迫るドキュメンタリー

 

 

拙ブログ関連記事

サラ・ゴメス@YIDFF | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

 

キューバ映画におけるサラ・ゴメスの存在 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

 

サラ・ゴメスの初期ドキュメンタリー:Enciclopedia popular | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)  

 

★サラ・ゴメスの発言など人物像に関することは、今後コメント欄に追記していきます。

De cierta manera(邦題:ある方法で)

 

1974年(公開は1977年)/79分/ドキュ・ドラマ/モノクロ

監督:サラ・ゴメス

助監督:リゴベルト・ロペス、ダニエル・ディアス・トーレス

脚本:サラ・ゴメス、トマス・ゴンサレス

録音:ヘルミナル・エルナンデス

美術:ロベルト・ララブレ

音楽:セルヒオ・ビティエリ

編集:イバン・アローチャ

撮影:ルイス・ガルシア

出演:マリオ・バルマセダ(マリオ)、ヨランダ・クエジャール(ヨランダ)、マリオ・リモンタ(ウンベルト)、ボビー・カルカセス、ギジェルモ・ディアスほか

   De cierta manera

ストーリー

1959年に勝利した革命による新政府は、売春や犯罪の温床になりがちなスラムを一掃。住民を新しい社会に統合すべく、その一環として、スラムの住民たちに自らの手で新しい住居を建てさせた。だが往々にして彼ら当事者は無関心だったり、変化に抵抗した。

 

1962年に建設されたミラフローレス団地も、元はヤグアスというスラム地区だった。

そこで生まれ育ったマリオは、革命後、技術学校に入るも中退。兵役を経て工場で働いているが、革命による変化や価値観の違いに戸惑いや反発、怖れを抱いていた。

 

そんな彼が、小学校教師として赴任してきたヨランダと知り合い、付き合い始める。

裕福な中流階級出身で革命を信奉する彼女にとって、新天地は〈革命が葬り去ったはずの世界〉だった。

そこでは、彼女の信念や説得が通じず、生徒や保護者、同僚を相手に空回りを繰り返す。

 

ある日マリオは、友人で同僚のウンベルトから「仕事をさぼって恋人と旅行に行くが内緒にしてほしい」と頼まれる。告げ口は裏切り行為で〈女のすること〉というアバクア(アフリカ系宗教の秘密結社)の教えが染みついたマリオは、ウンベルトが職場集会で《怠惰に対する法》違反に問われると、革命家として法を尊重すべきか、アバクアの教えに従うべきか葛藤する。

 

テーマ

革命で人種や階級差は消滅したとされるが、実際には残存しており、その問題(例:マチズモ)の根深さに迫ると同時に、克服への道を探る。

※参考:チェ・ゲバラの言葉(本作には出てこないが…)

プロレタリアートに性別はない。すべての男性と女性は、あらゆる職場において、共通の目的の獲得のために首尾一貫して闘うのである」

 

注目箇所

・ギジェルモ・ディアスの歌と助言:「旧い世界から脱せないのは卑怯だ(外の世界が怖い)からだ」

・ラストシーンの《何やら言い争いながら歩く》マリオとジョランダの姿

 

マリオ先生による解説

サラ・ゴメスと『ある方法で』 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

 

★ストーリーの背景にある史実(1971年)…本作に反映されている。

①「怠惰に対する法」発布 労働や勉学をしない者を罰する法

② アフリカ起源の宗教の禁止(不法行為の原因という理由で)

参考:ビデオで見る革命の変遷:70年代前半 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

  第一回全国教育文化会議(1971年4月) | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

 

Marysolの疑問と推測

マリオ先生の解説によれば、ゴメス監督はアフリカ系の人々に敬意を抱き、理解しようと努めていた。

しかも、ゴメス監督の夫で本作の録音技師、ヘルミナル・エルナンデスは、秘密結社アバクアに入っていた。

そうであれば、頭ごなしの決定②は、本作のヨランダのやり方に似て、高圧的、独善的ではないだろうか?

また、〈反社会的〉という理由で信仰を否定された人たちはどう感じただろうか?

社会に統合されるはずが、再び〈マージナルな存在〉に追いやられてしまったのでは?

 

ゴメス監督は、そうした人々に代わって、問題の本質や根深さ(父親不在、低所得、失業、愛情や規律の欠如)を本作を通して訴えたかったのではないだろうか?

 

ただ、本作は①②を否定はしていない(むしろ統計結果を通して肯定している)し、監督の意図も〈男女・階級差の解消と統合〉にあり、その困難の克服の仕方として、意見交換(ディスカッション)に可能性を託している。

 

感想など

サラ・ゴメスの作品をいくつか見て〈弱者に優しい〉と感じてきたが、本作でも“革命の落ちこぼれ”に寄り添い、理解しようとする姿勢を強く感じた。決して上から目線でものを言ったり、高飛車な態度をとらない点が好ましい(これはICAICの映画にも言える)。

 

私のイチ押し映画、『低開発の記憶』プチブル出身の主人公(セルヒオ)の視点で革命後も残存する〈意識の後進性〉を描いていたが、本作は同じ問題を社会の底辺層の立場(マリオ)から描いており、〈革命の恩恵を受けたはずの底辺層が変化に抵抗していた〉という指摘が意外だった!

ちなみに両作品とも主人公は葛藤するが、セルヒオの場合は〈生への欲求と(自己犠牲という)死〉、マリオの場合は〈男らしさと革命家のモラル(裏切り行為)〉に引き裂かれる。

 

本作についての最近の批評に〈革命は“革命家”という新しい階級を創った〉という指摘があった。

国民の統合と言うと〈正しいこと〉に思えるが、それが〈ひとつのモデルへの統合〉を意味するのであれば、画一的で、そんな社会はさぞ生き辛いだろう。

 

実際に2021年7月に大規模な民衆デモが起きたとき、ディアス・カネル大統領は「街は革命家のものだ」と言って、多くの市民を逮捕した。

平和的にデモをしただけで違法行為として逮捕されたり、いまだに刑務所にいる人たちがいる。

 

ソ連・東欧の消滅後、キューバは観光産業に活路を見出したが、黒人はホテルやレストランで採用されにくいと読んだことがある。新たな人種・階級差の拡大が心配だ。

 

関連記事(2007年10月の紹介記事)

『De cierta manera (ある方法で)』 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

Iré a Santiago(邦題:サンティアゴへ行こう) /1964年/ドキュメンタリー/ 35ミリ/モノクロ/15分

監督・脚本:サラ・ゴメス (SARITA)

撮影:マリオ・ガルシア・ホヤ (MAYITO)

編集:ロベルト・ブラボ

録音:ラウル・ガルシア

※  カナダのクイーンズ大学がICAIC所蔵の35ミリプリントをデジタル修復

内容

サンティアゴ・デ・クーバの暮らしや歴史、文化、カーニバルを含め観光ポイントまで、様々なジャンルのキューバ音楽に乗せて、友人に宛てたビデオレターのような気さくな語り口で紹介していく。

手法的には、フリーシネマやダイレクト・ムービー。

 

★英語字幕入り  

Marysolより

1.オープニングからエンディングまで、音楽に合わせてテーマ(フォーカス)も変わるので、音楽に即して構成を書き出してみました。

 

①  ソン「ソン・デ・ラ・ロマ/Son de la loma」

  ‐タイトルの元になったロルカの詩「サンティアゴへ行こう」の一節とオープニング・クレジット

  ‐サンティアゴの街中:露店、食べ物、人々の特長(大声で笑い話す。大げさな身振り)

 

②  「キューバの子守歌/Drume negrita」

  ‐民家(居心地が良さそうで開放的な雰囲気)

 

③  ダンソン(?) ※間違っていたら教えてください。

  ‐広場の芸人

 

④  トゥンバ・フランセサ

  ‐フランスの太鼓・リズムを伴う葬列

  ハイチ革命によってサンティアゴに避難して来たフランス系の植民者とその奴隷たちに由来する習慣、音楽、末裔には〈ハイチの〉ではなく、当時の宗主国〈フランスの〉という形容詞が付く。

 

⑤  ダンソン ”Cuando canta el cornetín"

  ‐コロンブスによる征服や海賊の歴史

  ‐アフリカ人奴隷の到来(→アフリカ系文化)、密輸、独立運動(アントニオ・マセオ)

 

⑥  アフリカ系宗教のコーラス

  ‐インターバル:スカーフを被った水着姿の女性の噂

 

⑦  鼓笛隊

  ‐革命運動の地

 

⑧  カーニバルや街にあふれる様々な音

  ‐サンティアゴの男女、観光スポット、カーニバル

  

⑨  モザンビーケ(当時の最新のリズム)

 

①  について

ソンの代名詞のような歌「ソン・デ・ラ・ロマ」。「ソンの歌い手たちはサンティアゴから来た」という意味のタイトルだが、「サンティアゴのソン」という意味にもとれる。

この歌をバックに、スクリーンに現れるのは、スペインを代表する詩人フェデリコ・ガルシア・ロルカの 詩 “Iré a Santiago(僕はサンティアゴに行こう- キューバの黒人のソン-)”の一節。

「満月が出たらサンティアゴ・デ・クーバに行こう。黒い水の車に乗ってサンティアゴに行こう」

そこへ黒人の若い女性が現れ、スクリーンを横切り、階段を上がっていく―

階段には白いペンキでクレジットが読める―

 

ICAIC PRESENTA(ICAIC上映) 

A RAMÓN SUAREZ (ラモン・スアレスに)

 

ラモン・スアレスは、『低開発の記憶』までアレア監督作品の撮影を担っていた人物。

サラ・ゴメスとは『クンビーテ』(アレア監督/1964年)で一緒に仕事をしている。

(サラは助監督として参加)

 

では、本作の撮影を担当したのは誰かというと、マリオ・ガルシア・ホヤだが、クレジットにはMAYITO(マジート)と愛称のみの表記。

ちなみに、脚本・監督のサラ・ゴメスもSARITA(サリータ)と愛称のみの表記。

 

この茶目っ気たっぷりの(⑥のインターバルの挿入も含め)クレジット表記!

決して上から目線ではなく、むしろ観客を悪戯に巻き込むような近しさが、私にとってキューバ映画の魅力です。

 

④ キューバ通にとっても興味深いのは④(ハイチ文化の影響)

 

※ただ、トゥンバ・フランセサの取材はネストールとオルランド・ヒメネスが(ルネスのテレビ番組のために?)1961年に行っている。

ネストール・アルメンドロス(5):「浜辺の人々」「フランスの太鼓」 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

 

本作が観光アピールにもなっているという指摘に関連して

サラ・ゴメス監督の意図は分かりませんが、観光アピールを意図して制作された短編ドキュ・ドラマがこちら:初のカラー作品 『カーニバル』 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

 

 

今朝PCを開いて、恩師マリオ・ピエドラ教授が19日(キューバ時間)に亡くなられたと知りました。

あまりにも突然のことでショックを受けています。

 

マリオ先生との最近の通信は、WhatsAppでクリスマスや新年のメッセージの交換。

「足を骨折して1ケ月ほど大人しくしていないとならない」とありましたが、スペインにいる可愛いお孫さん(4代目マリオ君3歳)の写真を送ってくれました。

新年を祝うメッセージの翌日には、能登半島地震を心配するメッセージも下さいました。

 

私からは、一昨日「その後足の具合はどうですか?」とメッセージを送ったところでした。

すぐ既読になったけれど、返信がないのが、ちょっと気になっていました。

 

ただ、先生の元生徒さん(今は米国在住)だった友人が「まさに昨日(19日)マリオとWhatsAppで長時間お喋りをしたが、変わりなかった」と教えてくれました。

どうやら突然のことだったようです。

 

今日の午後は、FBで先生の訃報を報告したあと、拙ブログへの先生の寄稿をコメント欄にアップしていました。

ひとつひとつ読み返しながら、先生との20年間を駆け足で振り返っていました。

今はまだ先生の死が信じられず、できることなら2024年1月19日という日を消し去りたい。

もう一度先生と話したい。

 

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昨日「ディエゴの世界」について視覚的な観点から紹介しましたが、音楽も大事です!

最もキューバらしい要素かもしれません。

 

ディエゴはマリア・カラスが大好きなようでしたが、私としてはエルネスト・レクオーナやイグナシオ・セルバンテスへの言及や登場が嬉しい!

また、ホセ・マリア・ビティエルが作曲・演奏しているテーマ曲もハバナの美しさと哀しさを彷彿とさせ心に浸みます。

 

ところで、イグナシオ・セルバンテスの曲が使われるようになったきっかけを、原作者で脚本も手掛けたセネル・パスが次のように話しています。

「ある日ティトン(アレア監督の愛称)が私のところに来て、「主人公が家で聴くと思われる曲をもってきた」と言って、イグナシオ・セルバンテスマヌエル・サウメル曲をカセットで聞かせてくれた。

私はすぐに、それがティトンが大好きな曲だということに気づいた。幸い著作権も切れていたので、新たなシーンを作って、この音楽を使うことにした。また、セルバンテスの生涯を調べると、ディエゴ同様に問題があってキューバを追放されたことが分かった。それで『アディオス・ア・キューバ(キューバに別れを)』を聴くシーンを加えた。私自身が最も好きなシーンのひとつになった。ティトンは大層おどろき、喜んだ。最高のプレゼントになったと思う」

 

それではお聞きください。

 

★Adiós a Cuba(キューバに別れを)/ イグナシオ・セルバンテス作曲

 

★Ilusiones perdidas(失われた夢)/イグナシオ・セルバンテス作曲

 

※参考までに、マヌエル・サウメル作曲 Los ojos de Pepa(ペパの瞳)

 

★『苺とチョコレート』テーマ曲 /ホセ・マリア・ビティエル作曲・演奏

 

Marysolより

前回の投稿で紹介したグスタボ・アルコスの言葉のように「ディエゴのアパートにはキューバという宇宙の中心がある」とすれば、私はキューバの映画を通して、数々の美しく貴重なピースに触れることができたわけで、なんという幸せ!

 

*トリビア

ティトンことアレア監督は多才でしたが、ピアノも非常に上手だったそうです。

革命後のキューバ映画の中で、観客に最も大きな影響を与えた作品といえば『苺とチョコレート』

そのストーリーの背景は、70年代。

そう、“灰色の時代”と言われる、革命の文化が大きく変容・後退した時期。

その時代に、今年はいよいよ(ようやく💦)踏み込んいきたいと思います。

 

まず、『苺とチョコレート』について最近読んだコメントの中で、私がぜひ紹介したかったのが、グスタボ・アルコス氏(映画批評・大学教授)の発言。

↓ ↓ ↓

 

本作の背景には、ソ連崩壊を受け、国を団結し再構成する意図の呼び掛けがあった。違う勢力も受け入れる統合的な論調が本作を可能にした。そのわずか1年前には『Alicia en el pueblo de Maravillas(仮:不思議の村のアリス)』(1991年)を巡り、ICAICと党中央委員会イデオロギー局が激しく衝突したばかりで、これはICAICを葬り去ろうとした事件だった。すでに政府も認めていたこの決定を映画人たちは回避せしめていた。

 

『苺とチョコレート』が俎上に載せたのは、不寛容の問題、一方通行の論調しかない国に潜む危険性だった。と同時に、何十年も無視され曲解されていた“他者(otro)”について語るためだった。

“他者”というのは、“革命家のモデル”に当てはまらない人のことだが、元はと言えば、“革命家のモデル”も、党の理論家たちや権力が称揚するマチスト的な文化が押し付けた、恐るべき類型化の産物だった。

 

アレアとタビオ(注:共同監督)が警告したのは、我々のアイデンティティや文化を形成する価値観の喪失、国の将来を脅かしかねない悲劇だった。

ディエゴはキューバを象徴する人物で、彼の存在、特に彼のアパートには、過去および現在の我々そのものが秘蔵されている。キューバと呼ばれる宇宙の中心がある。もし不寛容のせいで、その中心が壊されたなら、すべてが失われ、国の未来はないだろう。

 

↑ ↑ ↑

 

Marysolより:ディエゴの部屋のスクリーンショット

セルバンド・カブレラ(同性愛者で70年代は不遇をかこつ)と思われる作品

 

ホセ・マルティの下は、キューバの文豪レサマ・リマ(同性愛者で不遇な晩年を送る)

 

バレーシューズが象徴するのは、アリシア・アロンソか?

 

右下は歌手リタ・モンタネール、その上は画家アメリア・ペラエス

 

マリリン・モンローの写真

 

ウォーホル作のマリリン・モンロー

 

ウィスキーは資本主義側の酒

 

★《ディエゴ》と同じく”革命家”でない《セルヒオ》(低開発の記憶/アレア監督)の部屋

 

『低開発の記憶』の主人公セルヒオは自分のことを〈ヨーロッパかぶれ〉と自嘲気味に書いていましたが、部屋を見る限り、キューバやラテンアメリカのものが目につき、〈ヨーロッパ的〉には見えません。では、彼の趣味を何と表現すれば良いのでしょう?

私には「ルネス」の特長を表す「折衷的」という言葉が一番しっくり来ます。

「ルネス」が牽引した時代(1959~60年) | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

 

追記:ディエゴの世界~音楽編~

ディエゴの世界:音楽編 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

 

『プラサ・カテドラル(仮:カテドラル広場)』2021年

パナマ、メキシコ、コロンビア合作

監督:アブネル・ベナイム(51歳)

 

2021年のパナマ国際映画祭にて「観客賞」受賞

アカデミー賞外国語作品賞やラテンアメリカ映画のオスカーと称される「プラチナ賞」ノミネート

「ラテンアメリカ・カリブ映画で触れるSDGs」にて鑑賞

 

ストーリー

主人公のアリシアはメキシコ出身の40才の建築家。6歳の一人息子を事故で亡くし、夫とも離婚し、カテドラル広場に面したアパートに引っ越してきた。仕事は続けているが、悲しみと自責の念に苛まれ、生きる気力を失っている。カテドラル広場には、彼女が駐車する度にサービスと引き換えに小銭を要求してくる少年、チーフ(13才)がいた。ある夜、銃撃で負傷したチーフをアリシアは病院に送り届ける。が、彼は警察に移送されることを怖れ、病院から抜け出し、アリシアの家に助けを求めに来る。仕方なく受け入れ、世話をするなかで心境に変化が起きたのだろうか? アリシアは、とつぜん姿を消したチーフを探しに、危険も顧みず奔走するが―

 

テーマ:パナマ社会に存在する格差、分断、不公正、非情な暴力、マチスモ → 団結

 

 

監督の言葉

★テーマについて

社会的格差を超えて、互いを必要とし(だが、それを認めようとしない)助け合う(助けを求めなかったり、遅すぎたり、助けなかったりする)2人を描き、貧富の差を超えようとする作品を撮ってみたかった。だが、映画で極端な貧富の差を解消することはできない。

      

サッカーをする代わりに銃を手にする子供に罪を着せることはできない。それが彼らに与えられたものだからだ。間違っているのは社会で、社会の問題だ。

 

★El Chorrillo地区について

チーフが住む、貧しく、犯罪の多発する地域。

旅行者が足を踏み入れようとすると、警官に止められる。

だが、文化的な意味では、最もパナマらしい所。ボクシング選手のロベルト・ドゥランが生まれ育ち、ルベン・ブラデスの歌にもよく出てくる。

パナマ運河の入り口の近くにあり、まさにパナマの心臓部。

かつてノリエガ将軍の兵営があったので、米軍侵攻時には爆撃された。

 

★高層ビルが象徴するもの

視覚的なインパクトなどポジティブな面もあるが、上に行けば行くほど下の世界からは遠くなる。

最初のシーンで、高層ビルの下にEl Chorrillo地域が見えるが、景色として映ると、きれいで模型のようにしか見えない。

 

★チーフを演じたフェルナンド・ハビエル・カスタは、El Chorrilloの向かいの貧しいバリオ出身で、オーディションを受けた約250人の中でも際立っていた。

撮影終了から約1年半後、パンデミックで貧困が悪化し、閉塞状況のなか、他のバリオの路上で銃撃され死亡した。映画が公開される前のことだった。パナマでは日常茶飯事のこと。他の少年なら新聞に名前が出ることすらない。

 

★パナマ映画について

2010年に公開されたコメディ映画『Chance(チャンス)』は、パナマにとって60年ぶりの自国映画だった。

パナマを始め中央アメリカの国々も声をもっている。しかし、その声を映画で使ってこなかった。これからは私たちの番だ。

 

Marysolより

経済的に豊かだが傷心の主人公の側から描かれるせいか、展開がスローに思えたが、それゆえにラストの衝撃が大きかった。

しかも、そのあと字幕で《撮影後、チーフを演じた少年が路上で射殺された》と知り、もっとショックを受けた!

一瞬にして、何十年も前に観たブラジル映画『ピショット』が蘇り、ラテンアメリカ社会の《変わらなさ》に胸を突かれた。 

 

映像はシャープで、音楽も良かった。

誘ってくれた友人がピアノの演奏は、ダニーロ・ペレスかも…と言っていたので、調べたらその通りだった!しかも、なんと今年4月23日にブルーノート東京に出演予定!

 

備考

アリシアを演じたイルセ・サラスはメキシコ出身の実力派女優。

夫を演じたマノーロ・カルドナはコロンビアの俳優

 

アブネル・ベナイム監督のフィルモグラフィー

2010 Chance(仮:チャンス)

2014 Invasión (仮:侵攻事件…ノリエガ将軍追放を目的とした米国による軍事侵攻事件)

2018 Yo no me llamo Rubén Blades(仮:私の名はルベン・ブラデスではない)/ドキュメンタリー

※ ルベン・ブラデスはパナマ出身の有名なサルサ歌手。本作の共同プロデューサー。

新成人の皆さま、おめでとうございます。

 

私自身が「成人の日」を迎えたのは遥か昔のことですが、毎年この日〈伊集院静氏のメッセージ〉を読むのがここ数年の楽しみでした。

 

昨年の訃報以来、この日を迎えるのが淋しい気がしていましたが、今朝の紙面に最後のメッセージを見つけ、とても嬉しかったので、自分のために掲載します。

(氏の字も好きなんですよね~)

 

実は、昨年のスペイン旅行の前から「美の旅人」スペイン編も読み返しています。

 

   

 

アントニオ・サウラ(カルロス・サウラ監督の兄で、キューバ映画『低開発の記憶』のポスターの作者)についても触れられていたのは、嬉しい発見でした。(p.190)

 

表紙のゴヤの「砂に埋もれる犬」への感慨も共感します。

昨年はキューバ映画の名作『苺とチョコレート』が、1993年のハバナ映画祭で上映されてから30年目に当たるため、様々な記事をネットで目にしました。

その流れはまだ続いており、新しい情報や視点も色々と得たので、記しておきたいと思います。

 

ハバナの街を背景にしたディエゴ(左)とダビド(右)


まず、本作の映画紹介解説(我が師、マリオ・ピエドラ教授ハバナ大学教授)を先にお読みください。

私が今回いくつかの記事を読んで、非常に印象的だったことのひとつが、本作がキューバの観客に与えた衝撃と感動(歓喜)の大きさ、そして変化への期待の大きさでした。

すでにピエドラ教授の解説でも《『苺とチョコレート』は、キューバ国民に非常に大きな衝撃を与えた。人口1100万人のキューバで、観客数が1年で200万人を超えた。その結果、同性愛やそれに対する嫌悪を国民レベルで認識するきっかけになったと言えよう。本作のおかげで、我々は己をもっと批判的な眼で観ることを学んだし、キューバ映画は、より一層ダイレクトかつオープンに諸問題を提示するようになったのである》とありましたが、その言葉を上書き、あるいは上回る驚きや感動のコメントが投稿欄には溢れていて、改めて本作の影響力の大きさを目の当たりにしたのです。

そして、〈互いの性的指向やイデオロギーを超え、キューバ人同士は理解し合える〉と感動したこと、〈このあとキューバは良い方向に変わる〉と期待したことが分かりました。

確かに同性婚が認められるなど、大きな変化がありました。

が、その一方で、当時より寛容性や表現の自由が狭まっていることが今問題視されています。

 

※拙ブログ参考記事:
新旧映画祭と検閲:ハバナ映画祭・INSTAR映画祭・映画人集会 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)


今年1月1日のスペイン「エル・パイス」紙の記事で、ダビドを演じたウラジミール・クルスは次のように発言しています。
「時の流れはハバナの街を侵食したが、官僚たちの教条主義や文化機関の閉鎖性はそのままだ。それどころか、今は『苺とチョコレート』のような映画を撮ることも上映することも難しいだろう。その意味では悪くなっている」

 

日本は大丈夫でしょうか?

手遅れにならないよう、キューバ映画と一緒に考えましょう。

 

追記:

Youtubeに30年後の出演者の証言がありました。

“Fresa y chocolate" 30 años después, una "metáfora casi imposible" del abrazo entre cubanos | AFP - YouTube

 

エドムンド・デスノエスが昨年12月8日に亡くなりましたが、キューバの映画研究家J.A.G.ボレロ氏のFBの投稿に寄せられたコメントを通して、デスノエスが映画『低開発の記憶』(1968年、トマス・グティエレス・アレア監督)の脚本を書いただけでなく、その後6本の教育・文化的内容のドキュメンタリー映画を監督していたことが分かりました。

詳細は不明ですが、個人的に驚いたので、記しておきます。

 

Luis Najmias Little氏(CINEDの元関係者)のコメントより

デスノエスは、プロダクションCINEDで6本のドキュメンタリーを監督した。

また、同プロダクションの制作プランや監督たちとも積極的に関わっていた。

 

デスノエスが監督した6本のドキュメンタリー

1. Palma cubana (1974), de Edmundo Desnoes. Español

2. Versos Sencillos (1974), de Edmundo Desnoes. Literatura

3. Yo soy un hombre sincero (1975), de Edmundo Desnoes. Literatura

4. Sierra de Cubitas (1975), de Edmundo Desnoes. Geografía

5. Antonio Machado de España (1975), de Edmundo Desnoes. Literatura

6. Palma Parece (1976), de Edmundo Desnoes. Biología

 

※L.N.Little氏のコメントには、当時のデスノエスの写真も数枚投稿されていました。

また、当時の関係者から寄せられたコメントを通して、デスノエスが尊敬され、愛されていたことが分かり、嬉しかったです。