De cierta manera(邦題:ある方法で) | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

De cierta manera(邦題:ある方法で)

 

1974年(公開は1977年)/79分/ドキュ・ドラマ/モノクロ

監督:サラ・ゴメス

助監督:リゴベルト・ロペス、ダニエル・ディアス・トーレス

脚本:サラ・ゴメス、トマス・ゴンサレス

録音:ヘルミナル・エルナンデス

美術:ロベルト・ララブレ

音楽:セルヒオ・ビティエリ

編集:イバン・アローチャ

撮影:ルイス・ガルシア

出演:マリオ・バルマセダ(マリオ)、ヨランダ・クエジャール(ヨランダ)、マリオ・リモンタ(ウンベルト)、ボビー・カルカセス、ギジェルモ・ディアスほか

   De cierta manera

ストーリー

1959年に勝利した革命による新政府は、売春や犯罪の温床になりがちなスラムを一掃。住民を新しい社会に統合すべく、その一環として、スラムの住民たちに自らの手で新しい住居を建てさせた。だが往々にして彼ら当事者は無関心だったり、変化に抵抗した。

 

1962年に建設されたミラフローレス団地も、元はヤグアスというスラム地区だった。

そこで生まれ育ったマリオは、革命後、技術学校に入るも中退。兵役を経て工場で働いているが、革命による変化や価値観の違いに戸惑いや反発、怖れを抱いていた。

 

そんな彼が、小学校教師として赴任してきたヨランダと知り合い、付き合い始める。

裕福な中流階級出身で革命を信奉する彼女にとって、新天地は〈革命が葬り去ったはずの世界〉だった。

そこでは、彼女の信念や説得が通じず、生徒や保護者、同僚を相手に空回りを繰り返す。

 

ある日マリオは、友人で同僚のウンベルトから「仕事をさぼって恋人と旅行に行くが内緒にしてほしい」と頼まれる。告げ口は裏切り行為で〈女のすること〉というアバクア(アフリカ系宗教の秘密結社)の教えが染みついたマリオは、ウンベルトが職場集会で《怠惰に対する法》違反に問われると、革命家として法を尊重すべきか、アバクアの教えに従うべきか葛藤する。

 

テーマ

革命で人種や階級差は消滅したとされるが、実際には残存しており、その問題(例:マチズモ)の根深さに迫ると同時に、克服への道を探る。

※参考:チェ・ゲバラの言葉(本作には出てこないが…)

プロレタリアートに性別はない。すべての男性と女性は、あらゆる職場において、共通の目的の獲得のために首尾一貫して闘うのである」

 

注目箇所

・ギジェルモ・ディアスの歌と助言:「旧い世界から脱せないのは卑怯だ(外の世界が怖い)からだ」

・ラストシーンの《何やら言い争いながら歩く》マリオとジョランダの姿

 

マリオ先生による解説

サラ・ゴメスと『ある方法で』 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

 

★ストーリーの背景にある史実(1971年)…本作に反映されている。

①「怠惰に対する法」発布 労働や勉学をしない者を罰する法

② アフリカ起源の宗教の禁止(不法行為の原因という理由で)

参考:ビデオで見る革命の変遷:70年代前半 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

  第一回全国教育文化会議(1971年4月) | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

 

Marysolの疑問と推測

マリオ先生の解説によれば、ゴメス監督はアフリカ系の人々に敬意を抱き、理解しようと努めていた。

しかも、ゴメス監督の夫で本作の録音技師、ヘルミナル・エルナンデスは、秘密結社アバクアに入っていた。

そうであれば、頭ごなしの決定②は、本作のヨランダのやり方に似て、高圧的、独善的ではないだろうか?

また、〈反社会的〉という理由で信仰を否定された人たちはどう感じただろうか?

社会に統合されるはずが、再び〈マージナルな存在〉に追いやられてしまったのでは?

 

ゴメス監督は、そうした人々に代わって、問題の本質や根深さ(父親不在、低所得、失業、愛情や規律の欠如)を本作を通して訴えたかったのではないだろうか?

 

ただ、本作は①②を否定はしていない(むしろ統計結果を通して肯定している)し、監督の意図も〈男女・階級差の解消と統合〉にあり、その困難の克服の仕方として、意見交換(ディスカッション)に可能性を託している。

 

感想など

サラ・ゴメスの作品をいくつか見て〈弱者に優しい〉と感じてきたが、本作でも“革命の落ちこぼれ”に寄り添い、理解しようとする姿勢を強く感じた。決して上から目線でものを言ったり、高飛車な態度をとらない点が好ましい(これはICAICの映画にも言える)。

 

私のイチ押し映画、『低開発の記憶』プチブル出身の主人公(セルヒオ)の視点で革命後も残存する〈意識の後進性〉を描いていたが、本作は同じ問題を社会の底辺層の立場(マリオ)から描いており、〈革命の恩恵を受けたはずの底辺層が変化に抵抗していた〉という指摘が意外だった!

ちなみに両作品とも主人公は葛藤するが、セルヒオの場合は〈生への欲求と(自己犠牲という)死〉、マリオの場合は〈男らしさと革命家のモラル(裏切り行為)〉に引き裂かれる。

 

本作についての最近の批評に〈革命は“革命家”という新しい階級を創った〉という指摘があった。

国民の統合と言うと〈正しいこと〉に思えるが、それが〈ひとつのモデルへの統合〉を意味するのであれば、画一的で、そんな社会はさぞ生き辛いだろう。

 

実際に2021年7月に大規模な民衆デモが起きたとき、ディアス・カネル大統領は「街は革命家のものだ」と言って、多くの市民を逮捕した。

平和的にデモをしただけで違法行為として逮捕されたり、いまだに刑務所にいる人たちがいる。

 

ソ連・東欧の消滅後、キューバは観光産業に活路を見出したが、黒人はホテルやレストランで採用されにくいと読んだことがある。新たな人種・階級差の拡大が心配だ。

 

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