映画『オッペンハイマー』を観て | MARYSOL のキューバ映画修行

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【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
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日本での公開を待望していた『オッペンハイマー』をようやく観た。

 

  

映画『オッペンハイマー』公式|3月29日(金)公開 (oppenheimermovie.jp)

 

普段ミニシアターに行くことが多いせいか、大スクリーンが放つ《体感的衝撃》に圧倒された。

核実験での爆発シーンでは、思わず手を合わせ、途方もない悲しみに襲われた。

あれが広島と長崎の人々の頭上に起きたのだから。 

 

もしナチスが先に降伏していなければ、日本じゃなかったかもしれない…

そんな映画の示唆に困惑した。

 

想定外の連鎖。それは、オッペンハイマーの身の上にも起きる。

原爆を生んだのは、オッペンハイマーを始めとする科学者たち。

だが、その使用を決めるのは、大統領を始めとする政治家や軍人。

原爆の破壊力を知って、核開発に反対するオッペンハイマーは“邪魔者”となっていく

 

アメリカを勝利に導いた“英雄”から、赤狩りの標的に仕立てられていく「聴聞会」の茶番!

よその国の過去の話とは思えなかった…

だからこそ、誠実な証言(人)には救われた。

 

本作には色々な問いを見いだせるが、原爆を造ったオッペンハイマーに罪はあるのか?

 

ユダヤ人の彼にとり、原爆開発でナチスに先を越されてはならなかった。

もしオッペンハイマーが造らなくても、いずれどこかで誰かが造っただろう。

(日本も研究開発していた)

水爆を造ったテラーは、オッペンハイマーのように苦悩しただろうか?

オッペンハイマーには良心と誠実さがあり、だから自問自答し続けた

と私は思うし、それは別のドキュメンタリー番組で確認している。

問い続けること、問を共有することが大切だ。

 

『オッペンハイマー』を観ているとき、何度か泣きたくなった。

その気持ちを思い返していたとき、ふと広島での思い出が蘇った。

 

大学生の夏休み、山口県の青海島に友人と旅行し、帰りに時間があったので広島に寄り、原爆ドームと資料館を訪れた。出てきたとき、私はショックで呆然としていた。

「あの時代に生まれなくて良かったね」と友人が言ったとき、素直にうなづけなかった。

「それでは死者が報われない」気がして、言葉を探していたとき、平和を呼び掛ける人たちの声がした。

「これだ!」と思った。「二度と戦争を繰り返してはいけない」と。

起きた事は変えられない、でもその意味は変えられる。

 

泣いて終わりにしてはいけない。

あのときの思いが、キューバ映画『低開発の記憶』に、そして今『オッペンハイマー』に繋がっている。

 

追記:広島・長崎の悲劇は表現されていない?

 

本作について、公開前から〈広島・長崎の悲劇を伝えていない〉との意見を見かけていたので、その点に注意して鑑賞したが、台詞のなかで何度も「ヒロシマ」「ナガサキ」の名が出たし、映像の迫力で原爆の脅威は十分に伝わったと思う。

 

日本の悲劇が描かれていないという方は、どのような表現を期待しているのだろうか?

眼をそむけたくなるような映像は、かえって被害者に失礼になり兼ねないし、被爆者を演じる役者が日本人でなければ、それもまた問題になったかもしれない。

 

NHKの「クローズアップ現代」のインタビューで、ノーラン監督は「オッペンハイマーが直接見ていない広島・長崎は描いていない」と言ったが、実際には〈幻影〉として〈やけどを負った若い女性の顔〉を描いている。

しかも、映画評論家で監督の友人、トム・ショーン氏は同番組のなかで「重要なのは、“やけどを負った被害者”を演じたのがノーラン監督の娘だということです。監督は核兵器の破壊力を自分ごととして捉えている」と指摘した。

 

一方、娘を起用したことについて、ノーラン監督自身は「あまり自分の意図を分析しないようにしています」と言いながらも「もし究極に破壊的な力を創りだしたなら、それは自分自身の近くにいる大切な存在をも破壊してしまう、ということです」と説明し、「私にとって、可能な限り強い言葉でこれを表現する方法だったのだと思います」と語った。

 

そもそも本作は、第二次世界大戦を勝利に導いた〈英雄〉が核開発競争に反対したせいで、赤狩りの標的にされ、〈国家の裏切者〉へと転落するプロセスを描いた作品だ。

すべての史実を詰め込むことなど出来ないし、監督には独自のテーマがある。

 

ちなみに「ニューズウィーク 4・16号」には核実験の拠点のあったロス・アラモスに住んでいた先住民が強制退去させられた事にについて触れられていない、と指摘されていた。確か「速やかに戻れるよう望む」というような言葉でしか示唆されていなかったと思う。