前回予告したように、亡命キューバ人作家 エドムンド・デスノエスの小説 “Memorias del desarrollo(仮:後進性の手記)”(2007年)でバービーが登場するページを読み返してみました。
すっかり忘れていましたが、登場は終章近く、N.Y.に暮らす初老の主人公(エドムンド)が、アメリカ女性たちとの出会いと別れを繰り返したあげく、(過去から遠ざかる)旅の同伴者として人形を買うことにし、ショッピングモールに行って選んだのが、バービー。
店員から「ヒスパニック・バービーやジャマイカン・バービーもありますよ」「ベッドタイム・バービーも」と言われるが、彼が選んだのは、定番(クラシック)のマリブのバービー。
車に戻るや、包みを開け、彼女を解放してやる。
モーテルに着くと、ツインベッドの部屋を頼み、彼女をバルバラと呼び、語りかける―
「私は革命の理性を信じていた。でも今は分かる。革命は唯物弁証法でもなければ、愚か者の頭でもない。宗教的頑迷そのものだ」
「共産主義は結局のところ宗教で、政府として機能しない」
そして、バービーに「私にとって君は “より良い世界” という夢より、もっと本物で強固だ。唯物弁証法より肉体化した現実だ」
その後、バービーに生まれを尋ね、返事がないので背中を見ると、インドネシア製であることが分かる。すると言う。「私たちは白人で、西洋人に見えるが、実際には二人とも後進国、第三世界の生まれだ。君はインドネシア、私はキューバ」
以下、省略。
Marysolより
この小説は、〈ユートピア社会を創造する夢に破れNYに来た作家が、革命の失敗や自身の老いを見つめる〉内容。
バービーは、無邪気な顔に官能的なボディをもつ話し相手(聞き役)で最後の恋人か?
ある批評家の「資本主義社会の最大の消費シンボルで、永遠の若さの模範」という指摘に納得。
余談
アメリカ映画『バービー』を見る前日まで、数日間キューバの《男性優位》をテーマにした映画『ある程度までは』を見ていたので、両作品の〈テーマの共通性〉と〈対照的なアプローチ〉に色々な思いが湧きます。
しかも〈相手を束縛せず、自由に羽ばたかせてあげよう〉というメッセージも同じでした。
やはり、相手を支配しようとするのが問題ですね。
それにしても、バービーが女性革命のシンボルだったとは ❣
バービーの多様性、映画『バービー』を許したマテル社の懐の深さは、キューバ革命が失ってしまったもの…