HASTA CIERTO PUNTO (仮:ある程度までは)1983年 | MARYSOL のキューバ映画修行

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【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
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HASTA CIERTO PUNTO (仮:ある程度までは)1983年/88分/ドラマ/カラー

 

(ポスターの作者はレネ・アスクィ)

 

監督:トマス・グティエレス・アレア

脚本:トマス・グティエレス・アレア、ファン・カルロス・タビオ、セラフィン・キニョネス

撮影:マリオ・ガルシア・ホヤ

編集:ミリアム・タラベラ

録音:ヘルミナル・エルナンデス

音楽:レオ・ブローウェル

出演:オスカル・アルバレス(オスカル)、ミルタ・イバラ(リナ)、オマール・バルデス(アルトゥロ)、コラリア・ベロス(マリアン)、ロヘリオ・ブライン(ディエゴ)、アナ・ビニャ(フローラ)

 

本作を象徴するバスクの歌:TXORIA TXORI

歌詞:

もし望めば、羽を切ってしまうこともできるし、そうすれば僕のものになる

でも、そうしたら飛べなくなる

僕が愛しているのは鳥なんだ

 

ストーリー(ネタバレ含む)

1982年、ハバナ。

オスカルは、建設的な批評とユーモアを兼ね備えた作品が書ける脚本家。その才を見込まれて、友人の映画監督アルトゥロから「マチスモ(男尊女卑・男らしさの誇示)」を主題にした映画のシナリオを頼まれる。

アルトゥロいわく(革命で社会は変わったとはいえ)「男女関係に関して人々の意識はいまだに石器時代も同然」。映画を通しそれに気づかせ、意識の向上に寄与するためだ。

 

まずリサーチとして、最もマチスモがはびこっていそうな港湾労働者を取材しに行く。そこでオスカルは、組合の集会で発言するリナに注目。「港湾で働く女性のことを知る必要があるから取材させて欲しい」と頼む。

リナはサンティアゴ出身。17才のとき未婚の母になる。港湾で賄い婦として働く叔母を頼ってハバナに来た。今は11才の息子を育てながら、キャリアアップを目指し学校にも通っており、まもなく卒業の見込みだ。

 

リナをモデルにした役を演じるのは、オスカルの妻で女優のマリアン。取材が始まってしばらくすると、オスカルは妻の役作りのため、リナに会わせに行く。だが、すでにリナに魅かれていたオスカルは女優として紹介。二人の関係を察したリナに、後から妻だと打ち明ける。

 

一方リナもオスカルに魅かれ始めており、それまで付き合っていたディエゴを遠ざけるようになる。リナは、オスカルと結ばれたあと、ディエゴとの関係を話す。

 

オスカルは、妻に隠れてリナと不倫関係を続けながら、シナリオの完成を迫られていた。

しかもリナを始め港湾労働者への取材は、オスカルに様々な気づき― とりわけ映画人側の偏見や思い込み、上から目線への気づき― を与えていた。その結果、アルトゥロの構想(フィクション)から逸脱し、彼や妻の不信を招いてしまう。さらに、リナとの不倫が妻にバレてしまう。

 

ある日、妻と口論の末、リナの家を訪れたオスカルは、ディエゴへの嫉妬と独占欲に駆られ、リナを厳しく問い質し……

 

※ タイトルは、冒頭の港湾労働者の発言「男女平等は正しい。ある程度までは」に由来。

 

第5回 国際新ラテンアメリカ映画祭 グランプリ&女優賞受賞、 ポスター部門 受賞

 

    リナとオスカル

 

本作にまつわる批評や指摘

① ルシアノ・カスティーリョ(キューバの映画研究家・批評家)

*リナは《80年代の“ルシア”》だ。 ← 男女関係を侵食する根強いマチスモ

 だが、リナはあらゆる”飛翔”の妨げを乗り越える、自立した女性。

 

*映画をめぐる反省・内省

 アルトゥロは、現実(ドキュメンタリー)を映画のために利用しようとする。

 オスカルは、現実を理解するために映画を利用する。→ 探求のため

 

*マチスモを克服したつもりだったオスカルだったが、克服できていなかった。

   本作も「ある程度まで」しかテーマを掘り下げられていない。

 

*本作と密接な関係のある作品:De cierta manera(サラ・ゴメス監督)

   探求・冒険精神

  フィクションとドキュメンタリーの融合

 

② «Hasta cierto punto», o la especificidad de la dominación masculina en América Latina( Mara Viveros Vigoya氏論考/コロンビア)より抜粋して意訳

革命にコミットし、革命的意識が高い知的労働者は、白人系もしくは混血。本作の最初の段階では、マチスモは労働者階級の男性特有― 多くは教養がなく、ヨーロッパ的から遠い人種 ―の感情的な振る舞いと想定されている。だが、この区分はストーリーが展開するにつれ無効なことが明らかになる。

 

本作で興味深いのは、知的男性たち(脚本家と監督)が経験する矛盾である。彼らは、港湾労働者にはびこるマチスモを告発しようとするが、自らの内にそれが溢れていることに気づく(認めようとしないが)。港湾労働者もステレオタイプではなく、革命的知識人の振る舞いも大差ないことを提示している。にも拘わらず、革命的知識人にとって解決すべき問題であるとの自覚を欠いている。

 

女性港湾労働者(リナ)と脚本家(オスカル)の恋愛関係のみが、男性性と階級に備わる特権に対して批判的かつ内省的な視線をもたらしている。

 

女性港湾労働者は、男性に頼ることなく、息子と家庭を築いてきたが、“革命的”知識人―絶対自由主義と社会的可動性を約束する源―との出会いによって惑わされ、挙句の果ては、彼もありきたりの古臭い男であることが明らかになる。一方、前の男(ディエゴ)は、彼女に振られ、男としてのプライドを傷つけられたことで、彼女を性的に暴行する権利があると思う。誘惑者にして征服者(オスカル)とプライドの高い攻撃者(ディエゴ)は、コインの両面なのだ。

 

タイトル『ある程度までは』は、私的生活におけるキューバ革命の成果も示している。

 

恋の魔法を維持するには、バスクの歌にあるように、男性は支配欲を放棄せねばならない。

 

③ Marysol

本作では、マチスモのほかに、労働者階級やアフリカ系の人々に対する偏見、労働状況の様々な問題点についても当事者の声で率直に語られている。

 

オスカルや”知的労働者側”の偏見・矛盾を突いているので、2度以上見た方が面白い。

1度だけでは、ありきたりで凡庸に思えるかもしれない。(アレア作品の中では評価が低い)

 

個人的に興味深かったシーン(会話)

「波止場で荷物運びをした後に、それと同じものを見に映画館に行きたいと思う? そんな映画、誰も見ないでしょうね。皆は仕事や色んな問題を抱えていて、そこから離れたくて映画に行くのよ。きれいなものを見たいのよ」とリナが言うところ。

するとオスカルは、「映画は人に考えさせるのに役立つと思わないかい?問題解決に」

リナ:「そうね。映画が自分たちの問題に気づかせてくれると言う人たちもいるわね。それは良いことだと思うわ。問題が見えなければ、解決できないもの

 このリナの率直な意見も共感できるし、オスカルのセリフは、まさにアレア監督の主張そのもの。

 

追記(8月30日)

フリーダ・カーロ(メキシコ)のこんな言葉が出てきました。

Yo, que me enamoré de  tus alas, jamás te las voy a querer cortar.

私はあなたの翼に恋したのだから、絶対にその翼を切ろうなんて思わない。

※ 女性の方が愛する人に対して寛容ですね。