「お互いさま」の精神で(社会と個人) | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

ハバナ映画祭で見たコルダのドキュメンタリー。

http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-10021889774.html

http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-10021978996.html

星の王子さま


彼が引用した『星の王子さま』のフレーズがとても印象的だったので、日本に帰ったらぜひもう一度この本を手に取ろうと思いました。
すると帰国した翌日、NHKテレビで“『星の王子さま』に秘められたサンテグジュペリと妻との秘話”が放映されました。
まさにグッドタイミング!


“心で観なければ、ものごとはよく見えないってことさ”
“肝心なことは目に見えないんだよ”


番組のおかげで、この有名な言葉に秘められた作者の人生の軌跡を知ることができたことは最大の収穫でしたが、もうひとつ“思わぬ収穫”だったのが、サンテグジュペリが愛する妻コンスエロとの長い葛藤のあと、再び絆を取り戻し、米国で幸せに暮らし始めたにもかかわらず、アメリカが第二次大戦に参戦するや、コンスエロの願いを振り切って、戦争に志願したと知ったこと。
「一人の人間として存在するためには、責任を引き受けなければならない」
こうしてサンテグジュペリは、偵察機のパイロットに志願し、帰らぬ人となってしまいます。
パウリーナ
キューバ映画『低開発の記憶』を自分なりに掘り下げているうち、私が気づかされ、感動したことのひとつ、それは“ゲバラやカストロを始め、キューバ革命を支持した人たちが、共有していたと思われる社会的責任感”です。


ファッション写真家として名実ともに成功していたコルダも、パウリーナとの出会いによって“社会的責任”を自覚し、その後は報道カメラマンとして矜持を貫きました。
もしかして、この意識は、20世紀前半の世界で同時代的に共有されていたのでは?


終戦前の日本でも、“社会的責任”ゆえに、個人の意思を超越して、みな戦争に駆り出されたのではないでしょうか。

先日『硫黄島からの手紙』を観て、そんなことを思いました。


悲惨な戦争体験への深い反省から、日本人は過去をすべて否定しましたが、新しく“個人”の確立を図ろうとしたものの、気がつくといつの間にか、歪んだ個人主義(エゴイズム)へと道を踏み外してしまったように思います。

今の私たち日本人の姿は、セルヒオ(『低開発の記憶』の主人公)の醜く歪んだ鏡像と似ていないでしょうか?


一方キューバでは、逆の現象が起きている気がします。
あまりにも“社会的存在”であることが強調される余り、若い世代は自己実現の機会を奪われ、閉塞感に苛まれているように感じられるのです。


『硫黄島からの手紙』で印象に残った言葉があります。
「自分が正しいと思ったことを貫けば、それが正義になる」


正義は一つではないし、時と場所が違えば“正義”も異なる…
また、人はそれぞれ自分の求める正義があり、それは試行錯誤を経てつかむもの―

仮に掴んだと安心しても、慢心しているうちに、手の中の“正義”が変質していることもあります。


ハバナの映画祭では、こんな言葉に出会いました:
「人生とは(La vida es)、生まれること(nacer)、生きるのを手助けすること(ayudar a vivir);生きるのを止めること(dejar de vivir)」


そういえば今日まで、私も数え切れないほどの人たちに助けてもらいました。

その事実に感謝! 

そして、他の誰かにお返しを―