ラ・クーブル号爆破事件 | MARYSOL のキューバ映画修行

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【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
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ラ・クーブル号事件 ラ・クーブル号爆破事件(1960年3月4日)
私が初めてこの事件を知ったのは、2年前に訪れた革命博物館の展示がきっかけ。
悲惨なテロ現場の写真にショックを受けましたが、当時は何の予備知識もなかったため、やがて記憶の片隅に埋没しかけていたところ―


今回のハバナ滞在で、偶然「ラ・クーブル号爆破事件」を映したフィルムに3本も出会ってしまいました。


1本目は、ニコラス・ギジェン・ランドリアン(1938~2003)のドキュメンタリー作品(たぶん『カフェ・アラビカ』1968年)。
映像的には、これが一番の迫力。なにしろ、ちぎれた腕を手に走る人の姿とか映っていて、短いシーンながら忘れられません。


2本目は、すでに紹介した『KORDAVISION』(ドキュメンタリー)
http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-10021889774.html
有名なチェ・ゲバラのポートレートが撮られた、「ラ・クーブル号爆破事件」犠牲者の追悼式シーン。
Calle 23を埋めつくす市民の嘆きと、ゲバラの怒りが強く印象に残りました。
しかも驚いたことに、追悼パレードが行われた場所は、私がそのドキュメンタリーを観ていた映画館(23y12)の真横!
今自分がスクリーンで観ている光景が、46年前、実際にここで起きていたんだ…
そう思うと、急に事件が身近に―


そして3本目が『Reyita』という、スペイン制作のドキュメンタリー(2006年)
このドキュメンタリーは、1902年に生まれた黒人女性(母親は元奴隷)Reyitaの人生を描いたもの。
人種差別に苦しみ、生活に追われ、働きどおし―
進学の夢は叶わなかったけれど、信心のおかげか“憧れの”白人男性と結婚。
夫に仕える従順な妻、8人の子供の母として、毎日休む暇もないくらいなのに、さらに多数の恵まれない子供たちの面倒も見た“肝っ玉かあさん”でした。


けれども1960年3月4日、息子の一人を「ラ・クーブル事件」で失ってしまいます。
悲劇を語る彼女の口から、私は初めて「爆発が2度に渡って起きたこと(資料によると、最初の爆発から30分後に二度目の爆発があった)」「一度目の爆発で、救援に駆けつけた付近(ハバナ・ビエハ)の住民も大惨事に巻き込まれたこと」「そのため更に犠牲者が増えたこと」を知りました。

チェ・ゲバラ
ところで爆発が起きた時(午後3時10分)、チェ・ゲバラは農業改革庁で会議中。
爆発音に驚いて外を見ると、巨大な噴煙が立ち昇っている―
現場に急行したチェは、負傷した港湾労働者や兵士たちの手当てに奮闘します。
もしかしたら、Reyitaの息子と遭遇していたかもしれません。


多くの人が、手当ての甲斐なく亡くなりました。
ゲバラは、さぞ悔しかったことでしょう。
コルダの証言「チェの瞳は怒りに燃えていた」背景には、こんなエピソードがあったのです。


さて事件のことをネットで調べているうち、革命後のキューバが、いかに頻繁にテロに見舞われていたか知り、大きな憤りを覚えました。
例えば、事件のあった1960年の1月は、ほぼ連日。2月は週に2回の割合で破壊行為を被っています。損害も莫大だし、まったく堪ったもんじゃありません!

http://www.granma.cubaweb.cu/miami5/terrorismo/cronologia/terrvscub_1960.html

http://www.granma.cu/miami5/galeria/terrorismo/galeria.htm


そういえば、私が初めてキューバに旅行したときも、ホテルの人から「最近この近くのホテルで爆弾騒ぎがあった」と聞かされ、一瞬「なんて物騒な所に来てしまったんだろう」と後悔したっけ…


「ラ・クーブル事件」後も、テロは日常茶飯事に続き、「エル・エンカント火災事件(1961)」、その直後の「ピッグス湾侵攻事件(1961)」と脅威はエスカレート、そして遂に1962年10月、「キューバ危機」で緊張は頂点に達するのです。