『もうひとつの島』原題:En la otra isla/1968年/ドキュメンタリー/40分
監督、脚本:サラ・ゴメス
撮影:ルイス・ガルシア
編集:カイタ・ビジャロン
録音:ヘルミナル・エルナンデス
音楽:ヘスス・パスカウ
内容:
1965年から67年にかけて、《新しい人間》像に適合しない若者たちがピノス島(現在の「青年の島」)に送られ、再教育のための集団生活を強いられた。
本作は、彼ら収容者の意識調査を目的に製作されたが、キューバの中の“もうひとつの島”で、各人がどんな生活を送り、どんな変化があり、どんな思いでいるのか、踏み込んだ記録となっている。
登場人物と概要 (注:聞き取れない部分も多く不十分な内容。メモとして掲載)
1.マリア (17歳)
5時半に起床し、6時半から昼食まで農園で働き、午後3時半からは美容の授業と実践教育を受けている。文化活動では、パーカッションの伴奏に合わせて歌い踊る。島の生活に満足している。
2.ファハルド 演劇人
農場の牛舎で働きながら、演劇活動を行っている。「演劇・芸術・文化の仕事は生産活動と同じ価値がある」と主張し、その素晴らしさを熱く訴える。
3.ラファエル 歌手
国立芸術学校で音楽や歌を学び、卒業後はオペラ(ブルジョア趣味的?)に出ていたが、黒人ゆえに女性団員から共演を嫌がられ、舞台を去る。ピノス島の生活に満足しているが、「いつか『椿姫』を演じられるだろうか?」とゴメス監督に問いかける。
4.ラサロ 元神学生
聖職者になるための勉強を終える頃、革命が勝利し、今は聖職とはかけ離れた世界、牛舎で働いている。神を信じていた頃は暴力を否定していたが、識字運動員の若者が殺された事件を見てショックを受け、志を達成するためには同じく暴力に訴える必要があると考えるようになった。直面する多くの困難については、それをヒロイズムとしてではなく、(成すべきことをしているという意味で)幸せと受け止めている。恋人グラディスとの間に距離的・精神的距離を感じている。
5.バイキングたち
再教育のため都会から送られてきた「バイキング」と呼ばれる少年たち。監督いわく、「指導者たちは(本作のなかで)最も美しいシーンを期待し観たがったが、我々は『ミゲルの島』という別のドキュメンタリーを撮ることに決めた」。
6. マピーとハイメ(対照的な二人)
マピーはキャンプのカフェテリアで働いている。かつて“Las suicidas(心中者たち)”という大きなグループに属し、昼は農作業、夜は建設現場で明け方まで働いていたことを誇りに思っている。
一方のハイメは〈長髪にピッタリしたズボン〉が好きな、流行に敏感な青年。島での労働は気に入っているが、「大部分の若者は自分らしくありたいし、誰からも押し付けられたくないと思っている」。
7.マヌエラ、アダ、カチャ
カチャは、マヌエラとアダのいる班の責任者。マヌエラの父は、CIA要員と米国に渡り1年滞在した後に帰国し、今はカバーニャ刑務所にいる。カチャのことを〈自らも収容者の一員のように接してくれる〉と評価。
一方、カチャはマヌエラを〈我が強く、口も悪かった。衛生係の役割を与えたことで責任感が養われた〉と言う。アデラは〈内気で無口〉。カチャは、もっと若者らしく自己表現して欲しいと言う。
ゴメス監督がカチャに〈労働や男女間の規律〉について尋ねると、次のように答えた。
〈若い男女関係の問題はノーマルなこと。行き過ぎることがないよう話しているが、もし子供が生まれたら私達より共産主義者になるだろう〉。
★本作と『ミゲルの島』の意義(ファン・アントニオ・ガルシア・ボレロ氏の論考より)
サラ・ゴメスの作品は、誠実かつ挑発的で、観客を落ち着かない気分にさせる。
そして、彼女は我が国の最も勇気ある知識人のひとりだ。
サラがピノス島でドキュメンタリーを撮った年、1968年のキューバは、後に《灰色の5年》と呼ばれる時期の前兆が現れていた。
当時、レオポルド・アビラという名の顔のない男が「ベルデ・オリーボ」誌で毎週のように罵言を吐き、エベルト・パディージャやレネ・アリサ、ビルヒリオ・ピニェラ、アントン・アルファを攻撃していた。
サラは悪魔呼ばわりされることはなかったが、自ら青年の島(ピノス島)に行くと決め、処罰を受けている者たちの証言を直に聞き取った。そして我々に向けて彼らの姿を、その複雑さを交え、まるごと、ありのままにスクリーンに投映した。
そのおかげで、我々は当時の声や顔を知ることができる。
彼らは《新しい人間》の到来が話題だった時代の自信過剰なビジョンに当てはまらなかったが故に、再教育キャンプに閉じ込められ、反革命家、アウトサイダー、イデオロギー的陽動作戦家、人民の敵などのレッテルを貼られた。
フランツ・ファノンを読み込んだサラにとり、革命プロジェクトは、あらゆる社会的協定に作用する包摂と排除の力学を理解する、という挑戦を受け入れるべきものだった。そして、無批判に論証に賛成するのではなく、問題の根源を露わにし、階級差別的なレトリックを告発することだった。なぜなら、貧窮者を護ると言うイデオロギーに隠れて、実は秩序にとって危険と見なすことが多々あったからだ。
仏の作家マルグリット・デュラスの質問に対するサラの回答の一部(1967年):
「これは、日和見主義者や凡庸な人、裕福な人が存在しないということでしょうか?いいえ、そういう人たちはいます。私たちの間や、私の中にも居るかもしれません。でも、我々の内外にあるそれらの要素と闘う用意があれば、それは大した問題ではありません。私が貴方に確言できるのは、ここは体制順応主義者の国ではないことです。私が何よりも信頼するのは、“厄介な”若者たちの中の誰かで、どの教室にも、どの農場にも、どの工場にもいます。その人は、誰もしたことがない質問をし、回答を要求し、他の人たちを思考させるのです」
※Marysolが一部原文の構成を変え、太字にしたり下線を加えています。