『荒野の七人』 (メキシコへの誠実な視線) | MARYSOL のキューバ映画修行

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【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

「革命前のキューバでは西部劇が人気の的だったが、革命後、新しいヒーロー像が求められ、サムライが注目された」

http://ameblo.jp/rincon-del-cine-cubano/entry-10002402895.html
そう知ったときから、西部劇にまったく興味がない私でも「いつか見ておかなくては…」と思っていました。

荒野の七人
『荒野の七人』(1960年)は、黒澤明監督の『七人の侍』(1954年)リメークとして有名ですが、舞台はメキシコ
メキシコといえば、私にとって初めての外国。
思い返せば、遥か昔の夏休み、ケレタロという地方都市で一ヶ月ホームステイした後、仲間2人と更に一ヶ月間、バスでオアハカやユカタン半島を巡ったのが、我が異文化体験の始まりでした。


そのメキシコが舞台なら、がぜん期待は高まるというもの。
始めのうちこそ「やれやれ、アメリカ映画が描くメキシコ人て、こういうタイプなのよね」と“知ったふり”して見ていたのですが、村祭りのシーンあたりから、にわかに身を乗り出し、民俗芸能の“鹿踊り”のシーンでは「スゴ~イ!やるじゃない、この映画」と感心。
更にきちんとメキシコを考証していると感じたのが、チコが英雄気取りで「この国じゃ、偉業は歌になって語り継がれる」と言ったとき。
出来事を歌にして伝えて行く―そう、これぞラテンアメリカ文化の特徴。
(だからラテンアメリカの映画を観るときは、挿入歌の歌詞にも注目してみてください(字幕は出ないかもしれないけど)。「歌でストーリーを語っている」ことがあります)


というわけで、プログラムにもあるように、 『荒野の七人』はメキシコ系の俳優を起用し、メキシコ人の生活習慣の考証を誠実に描いたという意味でも意義ある作品。


さてウェスタンの見所といえば、ガンテクニック、ガンプレイとくるのでしょうが、あいにく私には皆目わからない。俳優たちの身のこなしには魅了されましたが。
となると、感動の中心は、もっぱら7人のキャラクターと全編に溢れる“ヒューマニズム”。
そういえば、“ヒューマニズム”という言葉、懐かしい…
若いときは“信仰”していたっけ、この言葉を。


感傷はさておき、主役たちの七人が七様にすこぶる個性的で、カッコ良いのですが、ラテンフリークとしては、オライリー(演じるのは、チャールズ・ブロンソン)に注目したいところ。
なぜって「メキシコ人の血が入っている」から。
彼は、村の子供たちからは“ベルナルド”というメキシコ名で呼ばれ、その愛想のない、いかつい風貌にも関わらず、やけに慕われます。
子供たちに付きまとわれ、迷惑のようでもあり、嬉しくもあるベルナルド。
ようやく命をかけて守るべきものを見つけたのかもしれません。
彼がなぜこの計画に志願し、あのように行動したのか、最後になってすべてを了解したとき、一気に感動が込み上げ、ウルッ…


彼の出るシーンで、特に印象に残ったのが;
悪党たちに抵抗できない非力な親たちを“卑怯者”呼ばわりして、ベルナルドに着いて行こうとするメキシコ農民の子供に対して、ベルナルドが本気で怒って、お尻を叩きながら諭すところ。
「何てことを言うんだ!君たちのお父さんは、君たちや家族を守るために耐えているんだ!断じて卑怯者なんかじゃない」
目立ちやすい“英雄的ふるまい”よりも、「毎日 牛馬のごとく黙々と働くことこそ本物の勇気」「俺にはまだそこまで踏み切れない」と、農民を敬うベルナルド。
彼も若い頃は、そんな親の苦労を知らず、反発して“勇敢な”ガンマンに憧れたのでしょうか?
捨て身のガンマンになれるはずもなく、農民の側に身をおいて観ていた私は、この言葉にちょっと救われました。ベルナルド、ありがとう。


さて、映画を心行くまで楽しんだあとの帰り道。
あのガンマン達の面影を追おうとして、ふと浮かんだ言葉―
それは“品格”。
彼らの何がそう感じさせたのか、自分でもよく分からないけれど、映画のセリフを借りると“自分と勝負”しているからかもしれない…

七人の侍




黒澤監督の『七人の侍』は、『荒野の七人』のモデルとなり、人間味豊かな、新しいヒーローを西部劇に誕生させました。
キューバの人たちは、スクリーンの“サムライ”に何を見たのでしょう?
それは、私たちのDNAにまだあるのでしょうか?