『永遠のハバナ』 | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

Ⅰ 『永遠のハバナ』への個人的な思い


フェルナンド・ペレス監督の紹介および、これまでの作品を通じて、寄り道をしながらも、キューバを断片的に見てきましたが、とうとうペレス監督の最新作、しかも現在日本で公開中の『永遠のハバナ』にたどり着くことが出来ました。


この『永遠のハバナ』は、3月12日に東京・渋谷のユーロスペースでレイト・ショー公開が始まり、いよいよ今週金曜日、6月3日に同映画館での上映は最終日を迎えるそうですが、約3ヶ月のロングランというのは、このような地味な作品としては“大健闘”と言えるのではないでしょうか。

大阪や京都でも上映されるそうですが、現代の日本の都会生活とは対極にあるハバナの普通の人々の姿が、多くの日本の人々に、スクリーンを通して知られ、心の片隅に留めおかれるなら、それで充分、映画同様、言葉は要らないでしょう。


いずれ近いうちに、このブログで紹介したいと思っていますが、私がキューバ映画にハマッたきっかけは、トマス・グティエレス・アレア監督の“Memorias del subdesarrollo”(直訳すると『低開発の記憶』)という作品です。この映画についての英語の研究本をたまたま読んだことがきっかけで、作品を観てもいないのに“アレア監督の視線”でキューバを見たい!あの視線の先にはきっと確かな何かがあるはず…と、思い込んでしまったのです。
すでに世界的な社会主義政権の崩壊が始まっていたので、キューバに対して希望的な観測より危機感の方がずっと強かったのですが、だからこそ、いったい何がアレア監督をキューバに留めているのか知りたいと思いました。


『永遠のハバナ』が映し出すのは、その今は亡きアレア監督(1996年に他界)が『低開発の記憶』(1968年)で反語的に観客に問いかけたモラル“エゴの殻を破り、集団のより良き未来のために尽くすこと”を夢みた眼差しの先、30数年後に“現実”として現れた21世紀初めのハバナです。アレア監督の“集団でみる夢”からペレス監督の“個人でみる夢”へと、キューバ映画のモラルがどう変化したのか、何がどう変わったのか、それをスクリーンで確かめたいと思いました。


ですから、私が述べる感想は、とてもプライベートなものになってしまいます。

でも、アレア監督亡きあとのキューバ映画を担うペレス監督、その彼へのオマージュとして書いてみたいと思います。(次回に続く)


注:アレア監督は日本でもファンの多い『苺とチョコレート』(1993年)の監督さんです。