『口笛高らかに』 | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

『口笛高らかに』を締めくくるにあたって


思いがけずアニメ・ヒーロー・エルピディオ(キューバ独立のために戦ったマンビのリーダー)についての記事が続きましたが、こうして寄り道したあとで、今もう一度『口笛高らかに』のエルピディオを眺めてみると、その名前に込められた“親の期待”がわかるような気がします。そして、その“期待”に応えられずに苛立つエルピディオの悩みの質も…。


例えば、もしこれを今の日本の状況に置き換えて想像してみると、どうでしょう?
“ニノミヤ・キンジロウ”という登場人物が、21世紀のこの日本で、パソコン・ゲームにはまって勉強も家の手伝いもしなくなる…とか、“イソノ・サザエ”さんが、専業主婦でなくなって、キャリアウーマンを目指す…とか、そんな場面をテレビや映画で見たら、どう感じるでしょうか?


“必須条件”ではないけれど、背景を知っていると知らないのとでは、やはり作品の見えかたが変わってくるように思います。特に『口笛高らかに』の場合は、エルピディオの例にしろ、今回とりあげる“宗教”にしろ、シンボリズムや“(意味の)二重性”が所々に潜んでいるため、どうかすると“解りにくい”、あるいは“知るともっとオモシロイ”のではないかと思うのです。


というわけで、今回は『口笛高らかに』のなかの宗教的モチーフについて。
(実は私も詳しくないのですが、)映画のなかで、エルピディオは自分の内的葛藤をサンタ・バルバラの像に向かって語りかけます。また、ラストシーンで主役の3人が出会う12月4日は、サンタ・バルバラを祝う日です。ちなみに、サンタ・バルバラは、キリスト教の聖人。一方、サンテリア(アフリカ起源の信仰)から見ると、サンタ・バルバラは、チャンゴーというオリチャ(神様)と同一視されているので、12月4日はチャンゴーの日でもあります
(宗教の混合については、複雑なので、詳しく知りたい方は“サンテリア”について調べてみてください)


さて、チャンゴーとはどのような神様なのでしょうか?

まず「雷」の神。その特徴は「男らしさ」「遊び好き」「女性にもてる」「太鼓と踊りの達人」
(チャンゴーが“運命の鍵を握る神”だという説もありますが、確かなことがわかりません。誰かご存知の方がいたら、ぜひ教えてください)。

では、サンタ・バルバラは? こちらは「雷」の守護者とされる聖女


どうやら「雷」を共通項に“同一”と見なされたようですが、チャンゴーは「男」、サンタ・バルバラは「女」という違いが、興味深くもあり、複雑に思われる点でもあります。


そういえば、アニメのヒーロー“エルピディオ”は、確か雷のなる日に生まれてましたね。
『口笛高らかに』のエルピディオも、いかにもチャンゴーが人間になったみたいなキャラクターです。
それじゃ、彼が対話している相手、サンタ・バルバラは“母国”キューバであると同時に、自分自身?それとも……なんて考え始めると、ついズブズブと深みにはまってしまうのが私の悪いクセ。


どこからかマリオ先生の“戒めの言葉”が聞こえてきそうです。
“Las personas que buscan, encuentran la quinta pata.”
直訳すると『詮索しすぎる人は(猫に)5本目の足を見つける』
つまり“無いものまで見える”という意味だそうです。トホホ…


「でも私がこんなふうになったのはキューバ映画のせいです」と言いたいくらい、キューバ映画には、アチコチに隠喩が潜んでいるように思われます。
「キューバ文化の特徴は“doble sentido(二重の意味合い)”と、キューバの現代若手アーティスト、サンドラ・ラモスさんも2003年の来日時の講演会で言っていました。


そうそう、映画でエルピディオと対話しているかのようなキューバの有名な歌手、ボラ・デ・ニエベの名前だって、直訳すると「雪のボール」。黒人歌手の彼に「雪」とあだ名するところに、キューバ人特有の辛らつなユーモアがうかがえます。そしてマリオ先生に言わせると、彼の歌はとても“キューバ的”で、特に彼の歌の“辛らつさ”や“二重の意味”がキューバ的なるものなのだそうです。私もたった一枚だけ持っているボラ・デ・ニエベのCD“Yo soy la cancion misma(私こそ歌)”を、この機会に初めてじっくり聞いてみたのですが、歌の内容は“甘い”というよりも限りなく“苦い”味わいでした。


それで映画のエンディングは、ボラ・デ・ニエベが歌う『バラ色の人生』。
ああ、猫に足が6本見える…