『口笛高らかに』 | MARYSOL のキューバ映画修行

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【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
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『口笛高らかに』 

                       ハバナ大学教授 マリオ・ピエドラ氏寄稿                  


フェルナンド・ペレス監督のフィクション4作目『口笛高らかに』は、わかり易い映画とは言えない。

それまでの作品の場合、概ねストーリーに関しては、さほど複雑ではなかった。しかし、本作品では、たくさんの象徴的表現(語り手の少女までもが水中で話す)が使われたり、二重の意味が含まれていたり、固有の文化的根拠を背景にしていたりするため、一般的な見地からすると、複雑なストーリーに思われる。

しかし、キューバの現実とは無縁の観客にとっても、この映画が幸せや幸せに届くための努力について語っていることは、明らかなはずだ。
いや、‘幸せ’というより、完全なる自己実現、もしくは“自分自身でいる”可能性を妨げるものすべてを拒否すること、について語っていると言えよう。
この作品を理解するためのキーパーソンは、おそらくエルピディオだ。彼は、マージナルな存在で、キューバという意味深長な名前の、行方の知れない母との対話にすがっている。


実は、ここには込み入った仕掛がある。というのも、エルピディオ・バルデスというこの男の名前は、キューバの有名なアニメ漫画のキャラクターと同じ名前であるため、我々のイメージでは“キューバ人”そのものを表すからだ。しかも、消えた母親の名が“キューバ”(このような名の女性はキューバにいない)とくれば、それは明らかだ。
ただし、エルピディオは母親に話しかけるのに、ある宗教的な像、サンタ・バルバラを通す。主役の3人が革命広場(ハバナで最も有名な広場)で再会する12月4日とは、まさしくサンタ・バルバラを祝う日に当たる。


この日、バレリーナのマリアナも、セックスの暗い思い出に苛まれているフリアも、エルピディオ自身も、全員が個人の自由な行動として、革命広場に行かなければならない。そこが重要な点である。なぜなら、個人の解放、自分自身であることが、政治を超えた何か、自分の人格や、抱え込んでいる亡霊、各自の思い出との接触を通過すべき何かになるからだ。
キューバ映画、もしくはキューバにまつわる映画には、しばしば過剰なほど“政治的な”関連性が盛り込まれる。しかしこの映画は、キューバ人の個人生活において政治が極めて重要であることを否定することなく、政治運動の目的を超えたところの、人間としての個人の大切さを経由する道、個性を経由する道を指し示している。


ペレス監督は、気心の知れたチームを頼みに、本作品を撮った。カメラのラウル・ペレス・ウレタ、編集のフリア・イップ、サウンド担当のエデシオ・アレハンドロの面々は、監督が探求していることを、スクリーンの上に的確に反映してみせた。このチームの存在は、‘非常にパーソナルな映画’という、ペレス作品の特徴を裏付けている。そのうえ監督は、実の娘(女優ではない)を水中や虚構的な場所で話す“不思議な人物”として登場させている。果たして、この娘の声は監督自身の声なのだろうか?


この“対話”という本作品のもつ特徴、それも特に観客との対話という特徴は、“エルピディオ”とカメラの関係によってもたらされる。エルピディオは、まるで共犯関係にあるかのごとく何度もカメラを見る。
またその一方で、エルピディオは黒人歌手の“ボラ・デ・ニエベ”(注:故人)とも“対話する”。ちなみに“ボラ・デ・ニエベ”とは、キューバ人にとって、“キューバらしさ(cubanidad)”の強力な例ともいうべき存在だ。豊かな情感とキューバ独特の味わいを込めて、歌で語る偉大なシンガーである。


おそらく本作品の最も重要な価値は、この“対話”がキューバ人同士という枠を超えて、幸福になりたいと願う全ての人の心に届くところにあるのだろう。

その人がどこにいて、誰であろうと。