『口笛高らかに』 | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
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『口笛高らかに』作品ノート


「複数のストーリーが結びついて一つに完結する作品を撮りたい」という監督のチャレンジ精神のもと、映画は、それぞれに悩みや秘密を抱えて葛藤する3人の主人公の、各々全く異なる人生が、クライマックスで劇的に交差するというスリリングな展開を見せます。
また、そこにはベベという謎めいたナレーターの少女がいて、時に主人公たちの人生にスルリと滑りこみながら、観客をこの映画の主題ともいうべき“幸せ探し”の旅に誘います。


ただし個人的な印象を言えば、いくら案内役がいても、観ていて何度かつまずきそうになります。というのも、キューバの内情に深く通じているわけではないし、馴染みのないキューバ独特のシンボルに溢れている作品だからです。

実際、監督は国内でも人々から作品について質問されたり、各人の解釈を聞かされたりしたそうです。


さてストーリーに立ち返ると、まず象徴的なのが、主人公のエルピディオマリアナ、そしてナレーターのベベが同じ孤児院で幼少時に出会っていること。孤児院の院長は“キューバ”という名の女性で、エルピディオの母であること。子供たちは、ボラ・デ・ニエベやベニ・モレ(両者ともキューバを代表するシンガー、故人)の音楽を聞いて育ち、エルピディオの内面には彼らの歌が深く根づいていること、です。


今回の『作品ノート』では、参照した数々のコメントの中から、特に私が興味を引かれた“解釈”を、かいつまんで紹介します(筆者はニカラグア人らしい)。


この映画では『キューバの若者を“孤児”になぞらえることによって、その世代が精神的な孤児状態にあることを象徴している。“新しい人間”という社会モデルが再定義されるべき時にあるからだ』


エルピディオはどうやらミュージシャンになりそこねて、社会の片隅で日陰者のように生きているが、母“キューバ”が幼い時に聞かせたボラ・デ・ニエベが、時々現れては、彼に対して“人生はどうあるべきか”とモラルを説く。彼の望みは“キューバ”と出会うことだが、要求される“新しい人間”像の条件を満たせなかったために、母なる“キューバ”が自分を捨てたと思っている』


マリアナについては『彼女の奇妙な禁欲主義、もしくは芸術の称揚は、キューバの“消費を犠牲にした生活”の一端をうかがわせる』


フリアは『生後数ヶ月の赤ん坊を捨てた記憶を封印している。“セックス”という言葉を聞くたびに目眩を起こす原因はそこにある。彼女はフェルナンド医師のおかげで神経症から回復するが、同時に、キューバには言葉や思想を怖れている人がたくさんいることに気づく』


『フェルナンド医師が通りに出て、命取りの(少なくとも、催眠性の)言葉を叫ぶと、人々がバタバタと目眩を起こすところは、おそらくこの映画の中で最も傑出したシークエンスだ』


『この映画では、二義的でありながらも意味のある出会いが、他にもいくつか織り込まれており、それらはシンボリックにキューバの現実を語っている。例えば、いつもフリアを乗せるタクシー運転手。または困窮状態にありながらも、お金の詰まった忘れ物のカバンを旅行者に返す、別のタクシー運転手。カタツムリを見つめている男。醜い容姿にコンプレックスを抱いている男。彼らは、いわば社会の周縁を表す“壁画”だ。しかしどのような立場であれ、不完全であるがゆえに神聖化されている』


…と、なかなか鋭い考察だと思うのですが、いかがでしょうか?


さて、冒頭でも触れたように、本作品のテーマは“幸せ探し”ですが、ペレス監督は「幸せとは何かを定義するつもりはなかった」と言っています。それよりも「その過程には多くの困難があり、人によって幸福の感じ方も違うはずだから、幸せを求めるとはどういうことかを描こうとした」そうです。


また、映画の最後でナレーターの少女が「2020年キューバ国民は全員が幸福になっている」と言いますが、いったいどこから“2020年”という数字が出てきたのか、という質問に対して、監督は次のように答えています。
「ちょうど読んでいた『ノストラダムスの予言』に“2020年に世界は変わるだろう。人類にとってより良い道が見つかるだろう”と書いてあったから。そうあって欲しいと願っている」


最後に、最も訊いてみたい質問とその答えを紹介して終わりましょう。
(2003年度ハバナ映画祭での会見より)


質問: 『マダガスカル』で、監督はトンネルの向こうに光を直観したと言っていましたが、トンネルの先のハバナはどんなハバナであって欲しいですか?


ペレス監督: 私は革命を信じています。なぜなら、それはより良い人間への可能性であり、より公正で開かれた社会を達成する可能性を秘めていると思うからです。もしドグマや図式化、官僚主義、現実の縮小化に変わってしまったら、信頼しなくなるでしょう。
私が夢見るハバナは、私たちの現実の多くの部分が大事に受け継がれ、ハバナの人たちがそれぞれ思い思いの音色で口笛が吹けるところであることです。アメリカナイズされた、軽薄なハバナはゴメンですね。矛盾したハバナもいいと思います。『口笛高らかに』の台詞にあるように、人生は決して完璧ではないのですから。


* 本作品は「サンダンス・NHK国際映像作家賞」支援作品です。