マダガスカル | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

   『マダガスカル』    マリオ・ピエドラ(ハバナ大学教授)寄稿

 

映画『マダガスカル』はストーリーを語るというよりも、集団的気分を描いている。
1991年、東欧で社会主義の国々が消滅したことで、キューバは恐ろしい打撃を被った。
米国政府による厳しい経済制裁が続くなか、国内的にも経済問題を抱えていた小さな島国は、全市場と供給国を失っただけでなく、政治的・軍事的支援も頼る相手がいなくなってしまったのだ。

“非常時”として知られるこの時期、キューバ国民の消費水準は、ギリギリの生存レベルにまで落ち込んだ。産業は止まり、途方もない不安感が国民全体の心に重くのしかかった。


フェルナンド・ペレス監督は、この描写しがたい我々の体験を、映画の冒頭で見事に集約して見せた。

自転車に乗った人々が苦しそうにペダルをこいでいる。そのシーンを何コマか見せるだけで、観客は息苦しい現実に引きずり込まれる。なぜなら自転車の大幅な利用は、交通手段の不足がもたらした事ゆえ、見れば嫌でも思い出す、まさに“非常時”の困難を象徴する存在だからだ。


本作品は、彼にとって3本目のフィクションだが、“雰囲気”を構築する秀逸な技量は、『危険に生きて』や『ハローヘミングウェイ』ですでに認められているところだ。両作品とも、ある状況に置かれた人間を描いているが、心理学的な眼差しに堕することなく、極めて人間的な視点を織り込むことに成功している。
『マダガスカル』製作のために、ペレス監督が編成した素晴らしいチームは、撮影監督のラウル・ペレス・ウレタ(映画の訴求力の大半は彼の映像のおかげだ)、編集のフリア・イップ、音楽・音響のエデシオ・アレハンドロ。構想のきっかけとなったのは、キューバ人女性作家ミルタ・ヤニェスの『ビートルズ対デュラン・デュラン』という、世代間の葛藤を扱った小説だ。しかし監督は作品のテーマを、世代間の衝突と、限界的な状況のなかで抱く私的な夢に置き変えた。


映画では、母と娘が全くコミュニケーション不能になる中で、娘はマダガスカルに行きたいと言いだし、家庭内に幻覚のような不条理な“雰囲気”が編み出されていく。この雰囲気や、理解しがたい娘の望みは、隠喩的にのみ見ることができる。つまり、マダガスカルは地図上の具体的な場所を指すのではなくて、“此処ではないどこか”、今居る場所の否定なのだ。そこは夢のなかの場所であり、夢が解き放たれ、実現できるかもしれない処となる。一方、疲弊した実存の限界にあって、母親は辛い日常に縛られていて、娘の奇妙な行動を理解してやることができない。


『マダガスカル』の映像は、重苦しい美しさで、登場人物たちの苦悩を示すと同時に、衰退と忘却の証言となっている。その上さらに、優秀な映画音楽作曲家、エデシオ・アレハンドロの作り出す幻惑的なコードが、この灰色がかった希薄な世界をいっそう際立たせる。


『マダガスカル』は、長さにしてわずか53分の作品だが、キューバ映画のなかでも、最も難解で悲痛な作品である。だが、間違いなく、最も成熟した、芸術的に凌駕しがたい作品の一つでもあるのだ。