“Madagascar”(マダガスカル)作品ノート | MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

 

まず誰もが不思議に思う『マダガスカル』というタイトルについてですが、なぜ『マダガスカル』なのか?

映画を観ても主人公の娘ラウリータが「休学して、マダガスカルに行きたい」というだけで、説明はありません。

唯一のヒントは「それが知らないところだから」という彼女の言葉でしょうか?


さて、叙事詩的で大衆受けしやすいフィクション第一作『危険に生きて』の後、まるで趣の違う『ハロー・ヘミングウェイ』を撮ったペレス監督。三作目に当たる『マダガスカル』は、さらに大胆に作風を変え、舞台も現代(90年代)に据えて、かなり実験的でシュールな作品に仕上げました。


その理由は? 「何かを主張するのではなく、観客が感情移入して、参加できるような映画を作りたかった。一般大衆向きの映画じゃないと言われるのは承知の上。だが“一般大衆”と言っても、実際には色々な人がいる。皆が一様に娯楽を求めて、映画館に来るわけじゃない」「実際にこの映画を観た人たち、特に若い層だが、現実と向き合うとき責任を意識するようになったと言う。私の意図した映画は、答えのある場所ではなく、答えを追求する場だ」 

(断片的に拾ったペレス監督の言葉を私なりにまとめてみました)


では「答え」というからには、当然「問題」があるわけですが、その問題とは何かというと、キューバの“非常事態”(外的危機)がもたらした精神的動揺(内的危機)です。


主人公の大学教授ラウラは、“夢みた現実”とは違う、今の現実に不満を募らせています。
そして娘のラウリータは、そんな母の姿を見るにつけ、まるで“この世界が終わってしまうような危機感”に囚われ、居ても立ってもいられなくなるのです。焦燥感に駆られてか、次々と奇怪な行動をとる娘の姿に、母のラウラはとまどい、遂に癇癪を起こします。


ペレス監督は、この母娘の葛藤を通して、キューバのジェネレーション・ギャップという問題を提示しています。

監督自身、家庭では3人の子供の父親であり(この作品はその3人の子供たちに捧げられています)、仕事場では若い世代と常に接しているせいか、切実なテーマとして捉えています。そして本人が言うように「私とももちろん関わっているが、私の知る多くの人々の経験を踏まえている」のです。


その成果をメルセデス・サントス・モライ女史は次のように評しました。
「円熟期を迎えたペレス監督は、キューバに暮らす私たちの、物質的・精神的不安や苦悩に思いを寄せて、傑作を作った」「私たちの困難な状況、迷い、カオスなど“危機”の実体が、主人公を通してスクリーンに投影されており、悲痛なメタファー(暗喩)になっている。そこでは、時に残酷なまでの不条理が、監督自身の経験や、デリケートで正直な思いと交差している。しかも、それはもはや個人的な感情を越えて、キューバ人全体の気持ちと重なり合い、ひとつになっている。だからこそ彼は、映画話法を駆使して、スクリーンに美しく置き換えて見せたのだ――キューバの歴史上、最も苦難に満ち、複雑で、けれども輝かしくもある時代のひとつを」


闇と光が交差する心象風景―それを表現するのに、ペレス監督は、ルネ・マグリットの絵(同一画面に夜と昼が混在しているような)をイメージしたそうです。

道理で、何度観ても不思議で不可解な印象がぬぐえないわけです。


そしてエンディングに流れる、オマーラ・ポルトゥオンドが歌う『キエレメ・ムーチョ』
“本当に愛していたら、離れては生きられない“
オマーラの歌声に心が揺さぶられるのは、愛するがゆえの苦悩が聞こえるからでしょうか。

 

*次回は、予告どおりマリオ・ピエドラ氏の寄稿を掲載いたします。

 楽しみにお待ち下さい。