「ICAIC」創設65周年と「ラテンアメリカ映画人委員会」創設50周年
今月24日、ICAIC(キューバ映画芸術産業庁)は創設65周年を迎えました。
おめでたいことですが、いくつかの記事を目にする限り、ICAICの時代は終わったばかりか、かつての〈批判する立場〉から〈批判される立場〉へと変わっているのが気になります(特に、映画人集会との対立もしくは無視・軽視を指摘されている)。
ただ、歴史的に観れば、ICAICには評価すべき成果がいくつもありました。
今回は《ラテンアメリカ映画の統合運動》および《ガルシア・マルケスの関与》について、下の討論会を通して見てみたいと思います。
最初の6分間のドキュメンタリー映像は、「新ラテンアメリカ映画財団」の創設を発表するガルシア・マルケス理事長(以下、ガボ)。ガボの横にはフィデル・カストロ首相、右後方にいるのは、アルマンド・ハート文化大臣(ではないか?)。
※ユーモアたっぷりのスピーチの一部はこちらでも紹介済みです。
65周年を記念したパネル討論会1
マノーロ・ペレス監督(左端/ICAICの生き字引)の証言
ICAICは創立(1959年)当初から〈ラテンアメリカ映画の統合〉を意識していた。
《ラテンアメリカのアイデンティティ》という意識が芽生えたのは60年代。
1973年、チリのアジェンデ政権が軍事クーデターにより崩壊する。
70年代のラテンアメリカ諸国は軍事政権が多くキューバは孤立する。
1974年、アジェンデの一周忌を記念してカラカスで開催された「ラテンアメリカ映画人の集い」にアルフレド・ゲバラ(ICAIC長官)、マノーロ・ペレスが出席。
連帯促進を図るべく「ラテンアメリカ映画人委員会」創設の合意が成る。
これにより、ラテンアメリカ映画人とキューバの関係が回復。キューバは亡命ラ米映画人を支える。
1977年、チリのビニャ・デル・マルで開催された映画祭に、アルフレド・ゲバラ、パストール・ベガ(監督)、サウル・ジェリン(ICAIC広報部長)が出席。
《ラテンアメリカという意識》がさらに強まる。
1979年、ハバナで第一回新ラテンアメリカ映画祭開催。
→ ラテンアメリカ、社会主義圏、米国、ヨーロッパの映画と関係ができる。
★アルフレド・ゲバラがガボをキューバに招待。
70年代にガボとキューバ、ガボとフィデルとの関係が強まっていく。
1976年 ガボ、アンゴラ戦争のルポルタージュを発表
1981年、フィデルがハバナ映画祭に出席。
以後、フィデルとラテンアメリカ映画や映画人と関係が深まっていく。
「ラテンアメリカ映画人委員会」の規模拡大のため、基金創設案が浮上。
フィデルがラテンアメリカ映画基金の理事長にガボを提案し、ガボが引き受ける。
フィデル以外だれも理事長にガボを想定していなかった。
☆ミゲル・リティン(亡命チリ人映画監督)がピノチェト政権下の祖国に潜入したいとフィデルに提案。
1985年、フィデルの後押しで、リティンのチリ潜入が実現。
1986年 ガボ「戒厳令下チリ潜入記」発表
Marysolより
「戒厳令下チリ潜入記」は当時本も読んだし、ドキュメンタリーも日本で観ました。
手元の本にざっと目を通してみましたが、フィデルの関与については全く書かれていません。
ただ〈別人になる〉ことの描写は、チェ・ゲバラの場合とダブりました。
マノーロ・ペレスが「リティンの提案を受け、フィデルはピニェイロに電話した」と言っていますが、“赤ひげ”と呼ばれる、マヌエル・ピニェイロのことでしょうか。