MARYSOL のキューバ映画修行

MARYSOL のキューバ映画修行

【キューバ映画】というジグソーパズルを完成させるための1ピースになれれば…そんな思いで綴ります。
★「アキラの恋人」上映希望の方、メッセージください。

「ICAIC」創設65周年と「ラテンアメリカ映画人委員会」創設50周年

  

 

今月24日、ICAIC(キューバ映画芸術産業庁)は創設65周年を迎えました。

 

おめでたいことですが、いくつかの記事を目にする限り、ICAICの時代は終わったばかりか、かつての〈批判する立場〉から〈批判される立場〉へと変わっているのが気になります(特に、映画人集会との対立もしくは無視・軽視を指摘されている)。

 

ただ、歴史的に観れば、ICAICには評価すべき成果がいくつもありました。

今回は《ラテンアメリカ映画の統合運動》および《ガルシア・マルケスの関与》について、下の討論会を通して見てみたいと思います。

 

最初の6分間のドキュメンタリー映像は、「新ラテンアメリカ映画財団」の創設を発表するガルシア・マルケス理事長(以下、ガボ)。ガボの横にはフィデル・カストロ首相、右後方にいるのは、アルマンド・ハート文化大臣(ではないか?)。

ユーモアたっぷりのスピーチの一部はこちらでも紹介済みです。

 

65周年を記念したパネル討論会1

 

マノーロ・ペレス監督(左端/ICAICの生き字引)の証言

 

ICAICは創立(1959年)当初から〈ラテンアメリカ映画の統合〉を意識していた。

《ラテンアメリカのアイデンティティ》という意識が芽生えたのは60年代。

 

1973年、チリのアジェンデ政権が軍事クーデターにより崩壊する。

70年代のラテンアメリカ諸国は軍事政権が多くキューバは孤立する。

 

1974年、アジェンデの一周忌を記念してカラカスで開催された「ラテンアメリカ映画人の集い」にアルフレド・ゲバラ(ICAIC長官)、マノーロ・ペレスが出席。

連帯促進を図るべく「ラテンアメリカ映画人委員会」創設の合意が成る。

これにより、ラテンアメリカ映画人とキューバの関係が回復。キューバは亡命ラ米映画人を支える。

1977年、チリのビニャ・デル・マルで開催された映画祭に、アルフレド・ゲバラ、パストール・ベガ(監督)、サウル・ジェリン(ICAIC広報部長)が出席。

《ラテンアメリカという意識》がさらに強まる。

1979年、ハバナで第一回新ラテンアメリカ映画祭開催。

 → ラテンアメリカ、社会主義圏、米国、ヨーロッパの映画と関係ができる。

 

★アルフレド・ゲバラがガボをキューバに招待。

70年代にガボとキューバ、ガボとフィデルとの関係が強まっていく。

1976年 ガボ、アンゴラ戦争のルポルタージュを発表

 

1981年、フィデルがハバナ映画祭に出席。

以後、フィデルとラテンアメリカ映画や映画人と関係が深まっていく。

「ラテンアメリカ映画人委員会」の規模拡大のため、基金創設案が浮上。

フィデルがラテンアメリカ映画基金の理事長にガボを提案し、ガボが引き受ける。

フィデル以外だれも理事長にガボを想定していなかった。

 

☆ミゲル・リティン(亡命チリ人映画監督)がピノチェト政権下の祖国に潜入したいとフィデルに提案。

1985年、フィデルの後押しで、リティンのチリ潜入が実現。

1986年 ガボ「戒厳令下チリ潜入記」発表

 

Marysolより

「戒厳令下チリ潜入記」は当時本も読んだし、ドキュメンタリーも日本で観ました。

手元の本にざっと目を通してみましたが、フィデルの関与については全く書かれていません。

ただ〈別人になる〉ことの描写は、チェ・ゲバラの場合とダブりました。

マノーロ・ペレスが「リティンの提案を受け、フィデルはピニェイロに電話した」と言っていますが、“赤ひげ”と呼ばれる、マヌエル・ピニェイロのことでしょうか。

去る12日の早朝、マイアミにてセルヒオ・ヒラル監督が亡くなりました(享年87歳)。

謹んでご冥福をお祈りいたします。

   

 

以下は、氏の簡単な略歴です。


1937年1月2日、ハバナで、アメリカ人の母とキューバ人の父の間に生まれる。
10歳のとき家族とニューヨークに移住。絵画を学ぶ。
1959年、キューバに戻り、翌年ICAIC(映画産業庁)に入る。

(ネストール・アルメンドロスに誘われた?)
★黒人奴隷にまつわるフィクション三部作、"El otro Francisco"(1974年)、"Rancheador"(1976年)、 "Maluala"(1979年)で知られる。

1982年、"Techo de vidrio"が検閲にあい、約5年間映画が撮れなかった。

※官僚政治の腐敗を描いた内容らしい。
1991年、"Maria Antonia"が大ヒット。
1992年、マイアミに移住。

マイアミでも、"La imagen rota"(1995年)に始まり、計4本ドキュメンタリーを撮っている。
2024年3月12日早朝、マイアミにて永眠

 

フィルモグラフィ ENDACより

Henificación y ensilaje (1962), de Sergio Giral (Documental)

Héroes del trabajo (1962), de Sergio Giral (Documental)

Inseminación artificial (1963), de Sergio Giral (Documental)

El testigo (1963), de Sergio Giral (Documental)

La jaula (1964), de Sergio Giral (Ficción)

Nuevo canto (1965), de Sergio Giral (Documental)

La muerte de Joe J. Jones (1966), de Sergio Giral (Documental)

Papeles son papeles (1966), de Fausto Canel (Ficción, Asistente de dirección)

Cimarrón (1967), de Sergio Giral (Documental)

Gonzalo Roig (1968), de Sergio Giral (Documental)

Rito de primavera (1968), de Sergio Giral (Documental)

Vía libre (1969), de Sergio Giral (Documental)

Anatomía de un accidente (1970), de Sergio Giral (Documental)

Por accidente (1971), de Sergio Giral (Documental)

Un relato sobre el jefe de la Columna 4 (1972), de Sergio Giral (Documental)

Querer y poder (1973), de Sergio Giral (Documental)

Qué bueno canta usted (1973), de Sergio Giral (Documental)

El extraño caso de Rachel K (1973), de Julio García-Espinosa (Co-guionista)

El otro Francisco (1974), de Sergio Giral (Ficción)

Rancheador (1976), de Sergio Giral (Ficción)

La sexta parte del mundo (1977), de Julio García-Espinosa (Dirección general) (Documental)

Maluala (1979), de Sergio Giral (Ficción)

Techo de vidrio (1982), de Sergio Giral (Ficción)

Plácido (1986), de Sergio Giral (Ficción)

Chicago Blues (1987), de Sergio Giral (Documental)

María Antonia (1990), de Sergio Giral (Ficción)

・・・・・・・・・・・

La imagen rota (1995), de Sergio Giral (Documental)

Chronicle of and Ordinance (2000), de Sergio Giral (Documental)

The Way of the Orishas (2004), de Sergio Giral (Documental)

To Barbaro del Ritmo (2004), de Sergio Giral (Documental)

Dos veces Ana (2010), de Sergio Giral (Ficción)

 

Marysolより

ヒラル監督の作品については、ネットでこの作品↓しか観ていませんが、お薦めです。

60年代末に亡命した重要な映画人が多数出演・証言しています。
『ザ・ブロークン・イメージ』:亡命したキューバ映画人のドキュメンタリー(1995年) | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)
 

2000年代初め、ヒラル氏のブログかホームページを何度か読んだことを思い出しました。

検閲にあった作品のことや、ICAIC映画人を何かに例えていたことを覚えています。

アレア監督のことは〈グル(導師)〉と称していたっけ。

『もうひとつの島』原題:En la otra isla/1968年/ドキュメンタリー/40分 

  

監督、脚本:サラ・ゴメス

撮影:ルイス・ガルシア

編集:カイタ・ビジャロン

録音:ヘルミナル・エルナンデス

音楽:ヘスス・パスカウ

内容:

1965年から67年にかけて、《新しい人間》像に適合しない若者たちがピノス島(現在の「青年の島」)に送られ、再教育のための集団生活を強いられた。

本作は、彼ら収容者の意識調査を目的に製作されたが、キューバの中の“もうひとつの島”で、各人がどんな生活を送り、どんな変化があり、どんな思いでいるのか、踏み込んだ記録となっている。

 

登場人物と概要 (注:聞き取れない部分も多く不十分な内容。メモとして掲載)

1.マリア (17歳)

  5時半に起床し、6時半から昼食まで農園で働き、午後3時半からは美容の授業と実践教育を受けている。文化活動では、パーカッションの伴奏に合わせて歌い踊る。島の生活に満足している。

 

2.ファハルド 演劇人

  農場の牛舎で働きながら、演劇活動を行っている。「演劇・芸術・文化の仕事は生産活動と同じ価値がある」と主張し、その素晴らしさを熱く訴える。

 

3.ラファエル 歌手

  国立芸術学校で音楽や歌を学び、卒業後はオペラ(ブルジョア趣味的?)に出ていたが、黒人ゆえに女性団員から共演を嫌がられ、舞台を去る。ピノス島の生活に満足しているが、「いつか『椿姫』を演じられるだろうか?」とゴメス監督に問いかける。

      

 

4.ラサロ 元神学生

  聖職者になるための勉強を終える頃、革命が勝利し、今は聖職とはかけ離れた世界、牛舎で働いている。神を信じていた頃は暴力を否定していたが、識字運動員の若者が殺された事件を見てショックを受け、志を達成するためには同じく暴力に訴える必要があると考えるようになった。直面する多くの困難については、それをヒロイズムとしてではなく、(成すべきことをしているという意味で)幸せと受け止めている。恋人グラディスとの間に距離的・精神的距離を感じている。

 

5.バイキングたち 

  再教育のため都会から送られてきた「バイキング」と呼ばれる少年たち。監督いわく、「指導者たちは(本作のなかで)最も美しいシーンを期待し観たがったが、我々は『ミゲルの島』という別のドキュメンタリーを撮ることに決めた」。

       

 

6. マピーとハイメ(対照的な二人)

  マピーはキャンプのカフェテリアで働いている。かつて“Las suicidas(心中者たち)”という大きなグループに属し、昼は農作業、夜は建設現場で明け方まで働いていたことを誇りに思っている。

  一方のハイメは〈長髪にピッタリしたズボン〉が好きな、流行に敏感な青年。島での労働は気に入っているが、「大部分の若者は自分らしくありたいし、誰からも押し付けられたくないと思っている」。

 

7.マヌエラ、アダ、カチャ

  カチャは、マヌエラとアダのいる班の責任者。マヌエラの父は、CIA要員と米国に渡り1年滞在した後に帰国し、今はカバーニャ刑務所にいる。カチャのことを〈自らも収容者の一員のように接してくれる〉と評価。

  一方、カチャはマヌエラを〈我が強く、口も悪かった。衛生係の役割を与えたことで責任感が養われた〉と言う。アデラは〈内気で無口〉。カチャは、もっと若者らしく自己表現して欲しいと言う。

  ゴメス監督がカチャに〈労働や男女間の規律〉について尋ねると、次のように答えた。

〈若い男女関係の問題はノーマルなこと。行き過ぎることがないよう話しているが、もし子供が生まれたら私達より共産主義者になるだろう〉。

 

★本作と『ミゲルの島』の意義(ファン・アントニオ・ガルシア・ボレロ氏の論考より)

サラ・ゴメスの作品は、誠実かつ挑発的で、観客を落ち着かない気分にさせる。

そして、彼女は我が国の最も勇気ある知識人のひとりだ。

サラがピノス島でドキュメンタリーを撮った年、1968年のキューバは、後に《灰色の5年》と呼ばれる時期の前兆が現れていた。

 

当時、レオポルド・アビラという名の顔のない男が「ベルデ・オリーボ」誌で毎週のように罵言を吐き、エベルト・パディージャやレネ・アリサ、ビルヒリオ・ピニェラ、アントン・アルファを攻撃していた。

 

サラは悪魔呼ばわりされることはなかったが、自ら青年の島(ピノス島)に行くと決め、処罰を受けている者たちの証言を直に聞き取った。そして我々に向けて彼らの姿を、その複雑さを交え、まるごと、ありのままにスクリーンに投映した。

 

そのおかげで、我々は当時の声や顔を知ることができる。

彼らは《新しい人間》の到来が話題だった時代の自信過剰なビジョンに当てはまらなかったが故に、再教育キャンプに閉じ込められ、反革命家、アウトサイダー、イデオロギー的陽動作戦家、人民の敵などのレッテルを貼られた。

 

フランツ・ファノンを読み込んだサラにとり、革命プロジェクトは、あらゆる社会的協定に作用する包摂と排除の力学を理解する、という挑戦を受け入れるべきものだった。そして、無批判に論証に賛成するのではなく、問題の根源を露わにし、階級差別的なレトリックを告発することだった。なぜなら、貧窮者を護ると言うイデオロギーに隠れて、実は秩序にとって危険と見なすことが多々あったからだ。

 

仏の作家マルグリット・デュラスの質問に対するサラの回答の一部(1967年):

「これは、日和見主義者や凡庸な人、裕福な人が存在しないということでしょうか?いいえ、そういう人たちはいます。私たちの間や、私の中にも居るかもしれません。でも、我々の内外にあるそれらの要素と闘う用意があれば、それは大した問題ではありません。私が貴方に確言できるのは、ここは体制順応主義者の国ではないことです。私が何よりも信頼するのは、“厄介な”若者たちの中の誰かで、どの教室にも、どの農場にも、どの工場にもいます。その人は、誰もしたことがない質問をし、回答を要求し、他の人たちを思考させるのです

※Marysolが一部原文の構成を変え、太字にしたり下線を加えています。

ミゲルの島

原題:Una isla para Miguel(直訳すると『ミゲルのための島』)

1968年/ドキュメンタリー/20分 

監督:サラ・ゴメス

脚本:トマス・ゴンサレス、サラ・ゴメス

撮影:ルイス・ガルシア

編集:カイタ・ビジャロン

録音:ヘルミナル・エルナンデス、アルトゥロ・バルデス

音楽:チューチョ・バルデス

 

内容

ミゲルは14歳。外見と粗暴さから「バイキング」と呼ばれる不良グループの一員で、両親を始め誰の言うことも聞かないため、義兄によってピノス島(現「青年の島」)の再教育キャンプに送られる。そこは彼のような問題児(13~17歳)が、集団生活を送りながら、勉学と労働と国防訓練にいそしむところ。その目的は、チェ・ゲバラが唱えた「新しい人間」のような、模範的革命青年に生まれ変わるため。

本作は、収容された少年少女たちを中心に、教育指導者を含め、彼らの日常をありのままに映すほか、ミゲルの家族にも取材し、彼の生育環境にまで踏み込んでいる。

 

本編

 

Marysolより

本作は、次の言葉で始まる。

「それら浮浪者たち、脱落者たちは断固たる戦闘的活動を通して民族の道筋を見出すであろう」

フランツ・ファノン「地に呪われたる者」より

 

キューバ映画研究家のファン・アントニオ・ガルシア・ボレロは、これを〈サラ・ゴメスの明確な戦闘的活動宣言〉と認める一方で、本作に注ぎ込まれた2種のセンシビリティに注目する。ひとつは、希少な女性監督としてのそれ。もうひとつは、ネグリチュードの意識をもった黒人女性としてのセンシビリティ。そこに今日サラ・ゴメスが評価される所以がある、と言う。

 

また、もうひとつの特長として、ゴメスが現実に根差した姿勢を貫き、決して教条的ではなかったことを挙げる。

一方、革命後のキューバでは、徐々に官僚的な思想が主導権を握っていき、規則の遵守が創造的自由より優勢になっていった。

 

ちなみに本作で、ピノス島の青年共産党同盟のマリオ・モンソン氏の言葉として「彼らは理由なき反抗者だった。彼らに理由(大義?)を与えるのが、党員としての我々の義務である」とあるが、13歳から17歳といえば〈反抗期〉で、それは親離れするための成長に必須な一段階でもある。

 

本作の音楽からは、時折り軽やかさやユーモアが伝わってくるが、私はそこにゴメス監督の懐の深さ、人間としての余裕を感じてほっとする。

 

余談

本作の最後の方でキャンプ名に「サムライ」という名前が付いているように(2回)聞こえた。

もしそうだとすれば、当時の日本映画の浸透ぶりを示す証拠だし、規律正しいイメージもあったのだろう。

サラ・ゴメス(1943年11月8日~1974年6月2日)監督・脚本家

  

ハバナの黒人中流階級の、知的で文化的な家庭の出身で、父は医者だった。

ハバナ音楽院で6年間学んだ後、学生新聞“Mella“や“Hoy domingo”で活動。

社会主義青年団に属していたが、頑迷なタイプではなく、むしろ物議をかもす方だった。

また、熱烈な革命家でもあった。

1961年にICAIC(国立映画産業庁)に入る。

1962年から63年にかけて教育系映画に関わるほか、アグネス・ヴァルダ監督の『キューバの皆さん、こんにちは』(1963年公開)にアシスタントとして参加。

   

  ※本編にも登場し〈チャ・チャ・チャ〉を踊っている。

 

1964年、T.G.アレア監督の『クンビーテ』、翌年にはホルヘ・フラガ監督の『El robo』で助監督を務める。

その一方で、’64年にドキュメンタリー映画 『サンティアゴに行こう』 で本格的に監督デビュー。

その後もドキュメンタリー作品を撮り続けるが、1974年、長編フィクション映画『ある方法で』を監督するも、持病の喘息により編集段階で他界(享年31歳)。遺作はトマス・グティエレス・アレア、フリオ・ガルシア・エスピノサ、リゴベルト・ロペスらが完成させ、1977年に公開された。

 

特長:

キューバ映画初の黒人女性監督として、アフロ・キューバのコミュニティや、女性、マージナルな存在の人々を描いたほか、人種・ジェンダー・階級間の不平等に焦点を当てた。

         

フィルモグラフィ ENDACより

1962: Plaza vieja/ Enciclopedia Popular No. 28 (Nota didáctica)

1962: Solar habanero/ Enciclopedia Popular No. 31 (Nota didáctica)

1963: Historia de la piratería/ Enciclopedia Popular No. 35- Número especial (Nota didáctica)

1964: Iré a Santiago (Documental, Dirección)

1965: Excursión a Vuelta Abajo (Documental, Dirección)

1966: Guanabacoa: crónica de mi familia (Documental, Dirección)

1967: … Y tenemos sabor (Documental, Dirección)

1968: En la otra isla (Documental, Dirección)

1968: Una isla para Miguel (Documental, Dirección)

1969: Isla del Tesoro (Documental, Dirección)

1970: Poder local, poder popular (Documental, Dirección)

1971: Un documental a propósito del tránsito (Documental, Dirección)

1972: Año uno (Documental, Dirección)

1972: Atención prenatal (Documental, Dirección)

1972: Mi aporte (Documental, Dirección)

1973: Sobre horas extras y trabajo voluntario (Documental, Dirección)

1974: De cierta manera (Ficción, Dirección)

 

参考作品:『サラ・ゴメスはどこ?』2005年/スイス/80分/ドキュメンタリー

   監督:アレサンドラ・ムラー

 

キューバ映画界における初の黒人女性監督としての側面のほか、妻、母親としての面にも迫るドキュメンタリー

 

 

拙ブログ関連記事

サラ・ゴメス@YIDFF | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

 

キューバ映画におけるサラ・ゴメスの存在 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

 

サラ・ゴメスの初期ドキュメンタリー:Enciclopedia popular | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)  

 

★サラ・ゴメスの発言など人物像に関することは、今後コメント欄に追記していきます。

De cierta manera(邦題:ある方法で)

 

1974年(公開は1977年)/79分/ドキュ・ドラマ/モノクロ

監督:サラ・ゴメス

助監督:リゴベルト・ロペス、ダニエル・ディアス・トーレス

脚本:サラ・ゴメス、トマス・ゴンサレス

録音:ヘルミナル・エルナンデス

美術:ロベルト・ララブレ

音楽:セルヒオ・ビティエリ

編集:イバン・アローチャ

撮影:ルイス・ガルシア

出演:マリオ・バルマセダ(マリオ)、ヨランダ・クエジャール(ヨランダ)、マリオ・リモンタ(ウンベルト)、ボビー・カルカセス、ギジェルモ・ディアスほか

   De cierta manera

ストーリー

1959年に勝利した革命による新政府は、売春や犯罪の温床になりがちなスラムを一掃。住民を新しい社会に統合すべく、その一環として、スラムの住民たちに自らの手で新しい住居を建てさせた。だが往々にして彼ら当事者は無関心だったり、変化に抵抗した。

 

1962年に建設されたミラフローレス団地も、元はヤグアスというスラム地区だった。

そこで生まれ育ったマリオは、革命後、技術学校に入るも中退。兵役を経て工場で働いているが、革命による変化や価値観の違いに戸惑いや反発、怖れを抱いていた。

 

そんな彼が、小学校教師として赴任してきたヨランダと知り合い、付き合い始める。

裕福な中流階級出身で革命を信奉する彼女にとって、新天地は〈革命が葬り去ったはずの世界〉だった。

そこでは、彼女の信念や説得が通じず、生徒や保護者、同僚を相手に空回りを繰り返す。

 

ある日マリオは、友人で同僚のウンベルトから「仕事をさぼって恋人と旅行に行くが内緒にしてほしい」と頼まれる。告げ口は裏切り行為で〈女のすること〉というアバクア(アフリカ系宗教の秘密結社)の教えが染みついたマリオは、ウンベルトが職場集会で《怠惰に対する法》違反に問われると、革命家として法を尊重すべきか、アバクアの教えに従うべきか葛藤する。

 

テーマ

革命で人種や階級差は消滅したとされるが、実際には残存しており、その問題(例:マチズモ)の根深さに迫ると同時に、克服への道を探る。

※参考:チェ・ゲバラの言葉(本作には出てこないが…)

プロレタリアートに性別はない。すべての男性と女性は、あらゆる職場において、共通の目的の獲得のために首尾一貫して闘うのである」

 

注目箇所

・ギジェルモ・ディアスの歌と助言:「旧い世界から脱せないのは卑怯だ(外の世界が怖い)からだ」

・ラストシーンの《何やら言い争いながら歩く》マリオとジョランダの姿

 

マリオ先生による解説

サラ・ゴメスと『ある方法で』 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

 

★ストーリーの背景にある史実(1971年)…本作に反映されている。

①「怠惰に対する法」発布 労働や勉学をしない者を罰する法

② アフリカ起源の宗教の禁止(不法行為の原因という理由で)

参考:ビデオで見る革命の変遷:70年代前半 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

  第一回全国教育文化会議(1971年4月) | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

 

Marysolの疑問と推測

マリオ先生の解説によれば、ゴメス監督はアフリカ系の人々に敬意を抱き、理解しようと努めていた。

しかも、ゴメス監督の夫で本作の録音技師、ヘルミナル・エルナンデスは、秘密結社アバクアに入っていた。

そうであれば、頭ごなしの決定②は、本作のヨランダのやり方に似て、高圧的、独善的ではないだろうか?

また、〈反社会的〉という理由で信仰を否定された人たちはどう感じただろうか?

社会に統合されるはずが、再び〈マージナルな存在〉に追いやられてしまったのでは?

 

ゴメス監督は、そうした人々に代わって、問題の本質や根深さ(父親不在、低所得、失業、愛情や規律の欠如)を本作を通して訴えたかったのではないだろうか?

 

ただ、本作は①②を否定はしていない(むしろ統計結果を通して肯定している)し、監督の意図も〈男女・階級差の解消と統合〉にあり、その困難の克服の仕方として、意見交換(ディスカッション)に可能性を託している。

 

感想など

サラ・ゴメスの作品をいくつか見て〈弱者に優しい〉と感じてきたが、本作でも“革命の落ちこぼれ”に寄り添い、理解しようとする姿勢を強く感じた。決して上から目線でものを言ったり、高飛車な態度をとらない点が好ましい(これはICAICの映画にも言える)。

 

私のイチ押し映画、『低開発の記憶』プチブル出身の主人公(セルヒオ)の視点で革命後も残存する〈意識の後進性〉を描いていたが、本作は同じ問題を社会の底辺層の立場(マリオ)から描いており、〈革命の恩恵を受けたはずの底辺層が変化に抵抗していた〉という指摘が意外だった!

ちなみに両作品とも主人公は葛藤するが、セルヒオの場合は〈生への欲求と(自己犠牲という)死〉、マリオの場合は〈男らしさと革命家のモラル(裏切り行為)〉に引き裂かれる。

 

本作についての最近の批評に〈革命は“革命家”という新しい階級を創った〉という指摘があった。

国民の統合と言うと〈正しいこと〉に思えるが、それが〈ひとつのモデルへの統合〉を意味するのであれば、画一的で、そんな社会はさぞ生き辛いだろう。

 

実際に2021年7月に大規模な民衆デモが起きたとき、ディアス・カネル大統領は「街は革命家のものだ」と言って、多くの市民を逮捕した。

平和的にデモをしただけで違法行為として逮捕されたり、いまだに刑務所にいる人たちがいる。

 

ソ連・東欧の消滅後、キューバは観光産業に活路を見出したが、黒人はホテルやレストランで採用されにくいと読んだことがある。新たな人種・階級差の拡大が心配だ。

 

関連記事(2007年10月の紹介記事)

『De cierta manera (ある方法で)』 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

Iré a Santiago(邦題:サンティアゴへ行こう) /1964年/ドキュメンタリー/ 35ミリ/モノクロ/15分

監督・脚本:サラ・ゴメス (SARITA)

撮影:マリオ・ガルシア・ホヤ (MAYITO)

編集:ロベルト・ブラボ

録音:ラウル・ガルシア

※  カナダのクイーンズ大学がICAIC所蔵の35ミリプリントをデジタル修復

内容

サンティアゴ・デ・クーバの暮らしや歴史、文化、カーニバルを含め観光ポイントまで、様々なジャンルのキューバ音楽に乗せて、友人に宛てたビデオレターのような気さくな語り口で紹介していく。

手法的には、フリーシネマやダイレクト・ムービー。

 

★英語字幕入り  

Marysolより

1.オープニングからエンディングまで、音楽に合わせてテーマ(フォーカス)も変わるので、音楽に即して構成を書き出してみました。

 

①  ソン「ソン・デ・ラ・ロマ/Son de la loma」

  ‐タイトルの元になったロルカの詩「サンティアゴへ行こう」の一節とオープニング・クレジット

  ‐サンティアゴの街中:露店、食べ物、人々の特長(大声で笑い話す。大げさな身振り)

 

②  「キューバの子守歌/Drume negrita」

  ‐民家(居心地が良さそうで開放的な雰囲気)

 

③  ダンソン(?) ※間違っていたら教えてください。

  ‐広場の芸人

 

④  トゥンバ・フランセサ

  ‐フランスの太鼓・リズムを伴う葬列

  ハイチ革命によってサンティアゴに避難して来たフランス系の植民者とその奴隷たちに由来する習慣、音楽、末裔には〈ハイチの〉ではなく、当時の宗主国〈フランスの〉という形容詞が付く。

 

⑤  ダンソン ”Cuando canta el cornetín"

  ‐コロンブスによる征服や海賊の歴史

  ‐アフリカ人奴隷の到来(→アフリカ系文化)、密輸、独立運動(アントニオ・マセオ)

 

⑥  アフリカ系宗教のコーラス

  ‐インターバル:スカーフを被った水着姿の女性の噂

 

⑦  鼓笛隊

  ‐革命運動の地

 

⑧  カーニバルや街にあふれる様々な音

  ‐サンティアゴの男女、観光スポット、カーニバル

  

⑨  モザンビーケ(当時の最新のリズム)

 

①  について

ソンの代名詞のような歌「ソン・デ・ラ・ロマ」。「ソンの歌い手たちはサンティアゴから来た」という意味のタイトルだが、「サンティアゴのソン」という意味にもとれる。

この歌をバックに、スクリーンに現れるのは、スペインを代表する詩人フェデリコ・ガルシア・ロルカの 詩 “Iré a Santiago(僕はサンティアゴに行こう- キューバの黒人のソン-)”の一節。

「満月が出たらサンティアゴ・デ・クーバに行こう。黒い水の車に乗ってサンティアゴに行こう」

そこへ黒人の若い女性が現れ、スクリーンを横切り、階段を上がっていく―

階段には白いペンキでクレジットが読める―

 

ICAIC PRESENTA(ICAIC上映) 

A RAMÓN SUAREZ (ラモン・スアレスに)

 

ラモン・スアレスは、『低開発の記憶』までアレア監督作品の撮影を担っていた人物。

サラ・ゴメスとは『クンビーテ』(アレア監督/1964年)で一緒に仕事をしている。

(サラは助監督として参加)

 

では、本作の撮影を担当したのは誰かというと、マリオ・ガルシア・ホヤだが、クレジットにはMAYITO(マジート)と愛称のみの表記。

ちなみに、脚本・監督のサラ・ゴメスもSARITA(サリータ)と愛称のみの表記。

 

この茶目っ気たっぷりの(⑥のインターバルの挿入も含め)クレジット表記!

決して上から目線ではなく、むしろ観客を悪戯に巻き込むような近しさが、私にとってキューバ映画の魅力です。

 

④ キューバ通にとっても興味深いのは④(ハイチ文化の影響)

 

※ただ、トゥンバ・フランセサの取材はネストールとオルランド・ヒメネスが(ルネスのテレビ番組のために?)1961年に行っている。

ネストール・アルメンドロス(5):「浜辺の人々」「フランスの太鼓」 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

 

本作が観光アピールにもなっているという指摘に関連して

サラ・ゴメス監督の意図は分かりませんが、観光アピールを意図して制作された短編ドキュ・ドラマがこちら:初のカラー作品 『カーニバル』 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

 

 

今朝PCを開いて、恩師マリオ・ピエドラ教授が19日(キューバ時間)に亡くなられたと知りました。

あまりにも突然のことでショックを受けています。

 

マリオ先生との最近の通信は、WhatsAppでクリスマスや新年のメッセージの交換。

「足を骨折して1ケ月ほど大人しくしていないとならない」とありましたが、スペインにいる可愛いお孫さん(4代目マリオ君3歳)の写真を送ってくれました。

新年を祝うメッセージの翌日には、能登半島地震を心配するメッセージも下さいました。

 

私からは、一昨日「その後足の具合はどうですか?」とメッセージを送ったところでした。

すぐ既読になったけれど、返信がないのが、ちょっと気になっていました。

 

ただ、先生の元生徒さん(今は米国在住)だった友人が「まさに昨日(19日)マリオとWhatsAppで長時間お喋りをしたが、変わりなかった」と教えてくれました。

どうやら突然のことだったようです。

 

今日の午後は、FBで先生の訃報を報告したあと、拙ブログへの先生の寄稿をコメント欄にアップしていました。

ひとつひとつ読み返しながら、先生との20年間を駆け足で振り返っていました。

今はまだ先生の死が信じられず、できることなら2024年1月19日という日を消し去りたい。

もう一度先生と話したい。

 

マリオ先生関連記事

恩師 マリオ・ピエドラ氏 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

友情 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

草壁久四郎氏の思い出 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

マリオ先生来日滞在記4:質問と回答集 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

マリオ先生来日滞在記5:「座頭市」特集 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

移民 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

マリオ先生滞在記2:『Soy Cuba』と『キューバの恋人』 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

マチェテの戦い(仮題)/ La primera carga al machete (1969) | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

『SOY CUBA(邦題:怒りのキューバ)』(2) | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

『ルシア』について/ マリオ・ピエドラ(ハバナ大学教授) | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

『いやしがたい記憶』 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

追悼・パストル・ベガ監督 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

解説『悪魔と戦うキューバ人』(マリオ・ピエドラ教授) | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

解説 『天国の晩餐』 原題:Los sobrevivientes(生き残りし者たち) | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

『最後の晩餐』解説(ハバナ大学教授 マリオ・ピエドラ) | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

『ダビドの花嫁』(もしくは『ダビドの恋人』)のテーマ | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

『苺とチョコレート』解説 マリオ・ピエドラ教授(ハバナ大学映画史) | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

『Video de familia(仮題:ビデオレター)』 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

他者のノスタルジー(『目覚めのとき』に寄せて) | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

サラ・ゴメスと『ある方法で』 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

昨日「ディエゴの世界」について視覚的な観点から紹介しましたが、音楽も大事です!

最もキューバらしい要素かもしれません。

 

ディエゴはマリア・カラスが大好きなようでしたが、私としてはエルネスト・レクオーナやイグナシオ・セルバンテスへの言及や登場が嬉しい!

また、ホセ・マリア・ビティエルが作曲・演奏しているテーマ曲もハバナの美しさと哀しさを彷彿とさせ心に浸みます。

 

ところで、イグナシオ・セルバンテスの曲が使われるようになったきっかけを、原作者で脚本も手掛けたセネル・パスが次のように話しています。

「ある日ティトン(アレア監督の愛称)が私のところに来て、「主人公が家で聴くと思われる曲をもってきた」と言って、イグナシオ・セルバンテスマヌエル・サウメル曲をカセットで聞かせてくれた。

私はすぐに、それがティトンが大好きな曲だということに気づいた。幸い著作権も切れていたので、新たなシーンを作って、この音楽を使うことにした。また、セルバンテスの生涯を調べると、ディエゴ同様に問題があってキューバを追放されたことが分かった。それで『アディオス・ア・キューバ(キューバに別れを)』を聴くシーンを加えた。私自身が最も好きなシーンのひとつになった。ティトンは大層おどろき、喜んだ。最高のプレゼントになったと思う」

 

それではお聞きください。

 

★Adiós a Cuba(キューバに別れを)/ イグナシオ・セルバンテス作曲

 

★Ilusiones perdidas(失われた夢)/イグナシオ・セルバンテス作曲

 

※参考までに、マヌエル・サウメル作曲 Los ojos de Pepa(ペパの瞳)

 

★『苺とチョコレート』テーマ曲 /ホセ・マリア・ビティエル作曲・演奏

 

Marysolより

前回の投稿で紹介したグスタボ・アルコスの言葉のように「ディエゴのアパートにはキューバという宇宙の中心がある」とすれば、私はキューバの映画を通して、数々の美しく貴重なピースに触れることができたわけで、なんという幸せ!

 

*トリビア

ティトンことアレア監督は多才でしたが、ピアノも非常に上手だったそうです。

革命後のキューバ映画の中で、観客に最も大きな影響を与えた作品といえば『苺とチョコレート』

そのストーリーの背景は、70年代。

そう、“灰色の時代”と言われる、革命の文化が大きく変容・後退した時期。

その時代に、今年はいよいよ(ようやく💦)踏み込んいきたいと思います。

 

まず、『苺とチョコレート』について最近読んだコメントの中で、私がぜひ紹介したかったのが、グスタボ・アルコス氏(映画批評・大学教授)の発言。

↓ ↓ ↓

 

本作の背景には、ソ連崩壊を受け、国を団結し再構成する意図の呼び掛けがあった。違う勢力も受け入れる統合的な論調が本作を可能にした。そのわずか1年前には『Alicia en el pueblo de Maravillas(仮:不思議の村のアリス)』(1991年)を巡り、ICAICと党中央委員会イデオロギー局が激しく衝突したばかりで、これはICAICを葬り去ろうとした事件だった。すでに政府も認めていたこの決定を映画人たちは回避せしめていた。

 

『苺とチョコレート』が俎上に載せたのは、不寛容の問題、一方通行の論調しかない国に潜む危険性だった。と同時に、何十年も無視され曲解されていた“他者(otro)”について語るためだった。

“他者”というのは、“革命家のモデル”に当てはまらない人のことだが、元はと言えば、“革命家のモデル”も、党の理論家たちや権力が称揚するマチスト的な文化が押し付けた、恐るべき類型化の産物だった。

 

アレアとタビオ(注:共同監督)が警告したのは、我々のアイデンティティや文化を形成する価値観の喪失、国の将来を脅かしかねない悲劇だった。

ディエゴはキューバを象徴する人物で、彼の存在、特に彼のアパートには、過去および現在の我々そのものが秘蔵されている。キューバと呼ばれる宇宙の中心がある。もし不寛容のせいで、その中心が壊されたなら、すべてが失われ、国の未来はないだろう。

 

↑ ↑ ↑

 

Marysolより:ディエゴの部屋のスクリーンショット

セルバンド・カブレラ(同性愛者で70年代は不遇をかこつ)と思われる作品

 

ホセ・マルティの下は、キューバの文豪レサマ・リマ(同性愛者で不遇な晩年を送る)

 

バレーシューズが象徴するのは、アリシア・アロンソか?

 

右下は歌手リタ・モンタネール、その上は画家アメリア・ペラエス

 

マリリン・モンローの写真

 

ウォーホル作のマリリン・モンロー

 

ウィスキーは資本主義側の酒

 

★《ディエゴ》と同じく”革命家”でない《セルヒオ》(低開発の記憶/アレア監督)の部屋

 

『低開発の記憶』の主人公セルヒオは自分のことを〈ヨーロッパかぶれ〉と自嘲気味に書いていましたが、部屋を見る限り、キューバやラテンアメリカのものが目につき、〈ヨーロッパ的〉には見えません。では、彼の趣味を何と表現すれば良いのでしょう?

私には「ルネス」の特長を表す「折衷的」という言葉が一番しっくり来ます。

「ルネス」が牽引した時代(1959~60年) | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)

 

追記:ディエゴの世界~音楽編~

ディエゴの世界:音楽編 | MARYSOL のキューバ映画修行 (ameblo.jp)